「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 呉中平雪穴 = 斉明天皇の造垣(かきねづくり)

 斉明天皇の狂心の渠(たぶれごころのみぞ)の石造りの地下水路と石の垣の呉中平雪穴がある。

 大阪山(飯岳山)中腹の「呉中平雪穴」の位置の記述として、飛鳥の地(赤村)の宮(岡本宮)から見れば北の方角になるが、
香春にあった宮(宇治宮)から見れば、日本書紀の記述通り「宮の東の山」に当たる。

 『日本書紀 斉明天皇二年』の下記の記述の「・・・宮の東の山に石を塁ねて垣とす。」の宮が、「菟道の宮」(宇治天皇の
 宇治宮があった辺り)と考えられる『日本書紀』の記述は、天智天皇四年の九月の以下の記述である。

  九月庚午の朔壬辰に、唐國、朝散大夫沂州司馬上柱國劉德高等を遣す。等といふは、右戎衞郎將上柱國百濟
 禰軍・朝散大夫柱國郭務悰を謂ふ。凡て二百五十四人。七月廿八日に對馬に至る、九月廿日に筑紫に至る。
 廿二日に表函を進る。
  冬十月の己亥の朔己酉に、大きに菟道 に閲す。

  この時の宮は、菟道であり、大坂山は宮の東の山にあたる。

<以下、『 狂心の渠と吉野宮 』のPage11より抜粋>

  呉中平雪穴が、「宮の北の山に石を累ねて垣とす」る遺構であるなら、齊明天皇は、「香山の東(宮原盆地)」に「狂心の渠」
 謗られた「石組みの地下水路(通称〝吹き出し〟)」を造られ、同年に「後飛鳥岡本宮(赤村岡本)」の「北の山(大坂山)」に
 石を累ねて垣とす、現在の呉中平雪穴を造られたことになる。
  「後飛鳥岡本宮」の所在も絡んで、いよいよ齊明紀の記述と香春町内の両つの石組み遺構とが完璧な一致を見る気がしてならない。

  いわゆる「狂心の渠」は、齊明天皇二年(西暦六五六年)、齊明天皇が水工に命じ、人夫延べ三万人余りを使って、香山(香春岳
 三ノ岳)の東に造り給うた。
  同年、後飛鳥岡本宮(赤村岡本の光明八幡社付近)の北の山(大坂山)に、人夫延べ七万人余りを使って、石を累ねて垣(呉中平
 雪穴)
を造り給うた。これが歴史事実のようである。

 

 















<呉中平雪穴 ・・・ 石を塁ねた垣>  

*.長方形で、9m×7m、深さ;5.5mの石垣

 

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