「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 2020年版 神武東征(全5回シリーズ「肆」)
(令和三年一月二十八日、豊の国古代史研究会有料配信)
神武天皇が、東征成就の報告の為に、陸路で宝満山(玉依姫命の所)へ凱旋した際に、留守を預かっていた将軍が迎えた伝説が残る神社。
以下、『越境としての古代[6]』の「神武は、筑豊に東征した」より
九州古代史の会の恵内慧瑞子氏から、大宰府に田中熊別の祭られた神社が現存するとの情報が寄せられた。そこは「王城神社」、太宰府市大字通古賀一二〇三番地に鎮座する。
『太宰府伝説の旅』(㊖古都太宰府を守る会発行)にこうある。
神武東征の折、四王寺山の上に城をかまえて、大野の県主田中熊別というものを置いて城を守らせました。天皇の城が置かれたので時の人は王城山といったそうです。
またこの嶺に武甕槌命と事代主命を祀り、東夷を平らげんことを祈らせました。
第二次東征発向の場所と様子を述べた貴重な伝承である。発向については既に述べたが、それと寸分違わない。
のみならず、王城に守将を置いた点は、東征先が筑豊(中州=豊葦原中国)であることと勝利した暁には必ず筑紫に戻ってくることの証明が見事に成されている。
神武が終に九州島を出なかった証拠がここにも残されていたのである。この筑紫側の伝承が射手引神社社伝と筑豊の各神社社伝に呼応することは、神武東征が史実以外の何者でもなく、戦後史学の神武架空説がいかに根拠のないものであるかということを証明している。
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