「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 天降八所(あもりはっしょ)神社 = 附近の地名「鳥居」/神武・東征の地

鞍手郡誌(昭和 9 年発行版)射手引神社社伝による神武天皇東征の地 ( 東征コース  E:天降八所神社

以下、『越境としての古代[6]』の「神武は、筑豊に東征した」より

 天降八所神社(同、頴田村) 皇軍行路に惱む時、八神雲影に感現して進路を教へ給ふ 

天降八所神社(頴田村大字佐與字柱松)縁起

 「馬見山の北麓、山澤四周して未だ開けず、道路泥濘にして歩行困難、人馬漸く疲れて進むこと能はず、天皇之を憂ひ給ひ、教導駒主命に勅して曰く、前途悠遠、然るに人馬卒の疲労今既に此の如く甚だし、今転ずる道ある可きや駒主命は道を変へ、宗像三女神の霊蹟を目指し、目尾峠へと迂回して、目尾の神峰にある強石明神を祭らせられた。

 此の時、駒主命が、一頭の駿馬を献じようとし、牧司に命じて之を御前に捧げやうとした際、馬は驚いて高く嘶き、一散にして駆け出して深山に飛び込んだので、牧司は後を追ふて曳き帰ったといふが、その駆け出したところを駆の馬といひ、馬の駆け込んだ山を馬見山といひ、献上した駿馬が鹿毛であったところからこの駆の馬は鹿毛馬ともいひ伝えて居ります。此の付近一帯は宗像三女神の霊蹟である。

 天皇が目尾山にまします時、雲の間から一羽の霊鳥が飛んできて大きい松の梢にとまり、伊邪佐々々と三声啼き、静々と西南に飛び去らうとしたので、天皇が仰せられるにはこれは神の使いだ、よろしく尾行すべしと命ぜられたので、皇軍は活気付いて進行しましたが、その霊鳥のとどまったところを、後に鳥居又は鳥尾といひ、その霊鳥を祀って鳥尾大明神と崇め祀り、之を鳥野神と申し上げる。」
 「天皇がここから西南に進まれるうち、俄かに御気分がお悪くなられたので、侍臣の種子命は、丘の上の杉の古木の下に天皇を休み奉り、椎根津彦と共に、杉の神木に天祖の御神霊を請ひ、熱心にお祈り奉ったところ、直ちに御気分が健やかに爽やかにならせられたので、その杉を魂杉大明神と申し上げたといふことです。
 この御休養、御祈願の丘が天降八所神社の神地で、今の佐与という神社の所在地名は、天皇が、御会話中に「左様か…」と仰せられたことに起因するといひ伝えてゐます。」(古代史の復元)

 

 福永晋三先生の著書『倭歌が解き明かす古代史 真実の仁徳天皇』の 「Ⅱ 飛ぶ鳥の明日香』の中の「神武天皇東征説話」の項に「八所神社附近の地名:鳥居」の記述があります。

 

以下、『新説日本書紀(第10回、2021年12月17日)』講座動画の画像より

天降八所神社

「天降八所神社」
「天降八所神社」

 「天降八所神社縁起」の説明は  こちら からご視聴頂けます。

第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
一、天降八所神社(同、頴田村
   皇軍行路に惱む時、八神雲影に感現
  して進路を教へ給ふ
天降八所神社縁起
     (頴田村大字佐與字柱松)
 初め、天皇中州に向かはむとし、日向より至る。処々の土賊を平らげ、筑紫国を巡狩したまふ時、馬見山の北麓、山澤四周して田野未だ開けず、道路泥濘にして行歩艱難、人馬漸く疲れて進むこと能はず、天皇之を憂ひたまひ、嚮導駒主に勅して曰はく、「前途悠遠、然るに軍卒の疲労今既に此の如く夫れ甚だし。又転ずる可き道有りや否や」とのりたまふ。駒主(つつし)みて奏して曰さく、「厳垣の神城近きに在り」とまうす。(且つ其の東南に神嶺有り、日尾山と曰ふ。太古、三女神宇佐嶋より御許山を歴
第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
天降八所神社縁起(つづき)
宗像の沖合に()く時に暫く駐まりて、其の属神をして石を其の北の尾鼻に一夜にして成さしむ。故に強石明神の名有り。其の後姫遂に海北道中に遷り永遠に道主貴と成る。天皇も亦今宇佐島より出発して、中州に向かはんとす。宜しく日尾の頂に駐蹕し、其の神を祭り、其の築石を看に行くべくして、啓行有るなり。)是に天皇諸兄と皆其の山に登り、駒主の厚礼の如く祭る。時に奇異なるかな、霊鳥刹那に雲間より舞い降り、古松の梢に停まり、鳴きて曰はく、「伊邪佐〻〻〻」と。此くの如く三声鳴き畢はりて、又西南に遙かに飛び去るや、天皇之を望みて曰はく、「神の使ひなり。尾行すべし」とのたまふ。(故に因りて時の人号けて是を烏尾と曰ふ。又、其の神を尊び烏尾明神と崇め奉る。後世所謂筑
第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
天降八所神社縁起(つづき②)
前國鳥野神とは即ち是なり。)其の地より路を西南斜めに転じ出発の途、故無くして(やや)もすれば気頻りに至り宸襟甚だ安からず。是を以て種子命を召し語りたまふ。種子命即ち奏して曰さく、「此の地は山高く谷深し。土地未だ凝らず。埃・陰気の聚まる所なり。故にか或は然るか。若し然らば則ち宜しく高地を卜ひて天祖の御悟しの随に御魂を鎮祭したまふべし」とまうす。天皇曰はく、「然らば善からむ」とのたまふ。(是に因り此の地を号けて佐与と曰ふ。蓋し佐与計牟の方言ならむ。)即ち御頸の珠を神璽とし、種子命之を振り揺らす。御鉾を御杖とし、椎根津彦之を突き轟かす。御魂を此の丘に鎮祭す。
『頴田町史』天降八所神社縁起(原漢文)  元禄十二年(一六九九)白土種直祀官敬白
『頴田町史』

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