「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 鯰田(なまずた)/皇祖神社 = 神武・東征の地(大迂回を行い給ふた所)

鞍手郡誌(昭和 9 年発行版)・射手引神社社伝による神武天皇・東征の地( 東征コース  M:鯰田

以下、『越境としての古代[6]』の「神武は、筑豊に東征した」より

 鯰田(飯塚市) 沼田といふ、天皇遠賀川を渡り惱み大迂回を行ひ給ふた所 

皇祖神社(飯塚市大字鯰田字峯)社伝

 「神武天皇、駒主命を先導となし、馬見山より国を覓め行き、去りて目尾山に至り即ち西す。山澤淤泥の難路を跋渉して、漸く沼田(鯰田)に達する時、駒主命進んで奏して曰く、彼の雲間に崛起するものは即ち竈門の霊峰なりと、天皇これを聞食し、諸皇子と皆蹕を丘上に駐め、躬親ら竈門の神霊を祭らる。
 沼田の丘を発し、立岩付近に達せし頃、忽然として、風雨頻に起こり、山岳振動して天地海灌咫尺を辯ぜず、皇軍頗る悩む。」(古代史の復元)

 

以下、『新説日本書紀(第10回、2021年12月17日)』講座動画の画像より

 神武天皇御一代記御絵巻(Ⓒ橿原神宮)にある「熊野灘の御危難」は「鯰田(熊野)の海戦」である。皇祖神社(飯塚市大字鯰田字峯)社伝を含め、動画の説明は、  こちら からご視聴頂けます。

神武天皇御一代記御絵巻

Ⓒ橿原神宮

五 熊野灘の御危難

五 熊野灘の御危難 鯰田(熊野)の海戦

第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
・鯰田(熊野)の海戦
 六月の乙未の朔丁巳に、軍至名草邑、則誅名草戸畔(とべ)者。戸畔、此云妬鼙(とべ)遂に狹野を越えて、熊野の神邑に到らむとす。且登天磐盾、()りて軍を引きて(よう)やくに進む。(わた)の中にして(にはか)暴風に遇ひぬ。皇舟(みふね)漂蕩(ただよ)ふ。時に稻飯命乃ち歎きて曰はく、「()()、吾が祖は天神、母は海神(わたつみ)なり。如何にぞ我を陸に(たしな)め、復我を海に厄むや」と。言ひ(をは)りて、乃ち劒を拔きて海に入りて、鋤持(さひもち)の神と化爲()る。三毛入野命、亦恨みて曰はく、「我が母及び(をば)は並に是海神なり。何爲(いかに)波瀾(なみ)を起てて、灌溺(おぼほ)すや」とのたまひて、則ち浪の()を蹈みて、常世の(くに)に往でましぬ。天皇獨り皇子手硏耳命と、軍を帥ゐて進み、熊野荒坂津 亦の名は丹敷浦(にしきのうら) に至ります。
第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
・鯰田(熊野)の海戦
皇祖神社社伝
 (飯塚市大字鯰田字峯)
 神武天皇駒主命を先導となし、馬見山より国を覓め行き、去りて目尾山に至り即ち西す。山澤(さんたく)淤泥(おでい)の難路を跋渉(ばっしょう)して、(ようや)沼田鯰田)に達する時、駒主命進んで奏して曰く、彼の雲間に崛起(くっき)するものは即ち竈門の霊峰なりと、天皇これを聞食し、諸皇子と皆(さきばらい)を丘上に駐め、躬親ら竈門の神霊を祭らる。沼田の丘を発し、立岩付近に達せし頃、忽然として、風雨頻に起こり、山岳振動して天地海灌(かいかん)咫尺(しせき)(べん)ぜず皇軍(すこぶ)る悩む。

 <所在地のGoogelマップ>・・・ 鯰田は、「皇祖神社(大字鯰田字峯)」の場所で表示