「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 射手(いで)(びき)神社

※ 2020年版 神武東征(全7回シリーズ「伍」)
 (令和三年二月十一日、豊の国古代史研究会有料配信)

 こちらに「2020年度版 神武東征(伍)」にある 『鞍手郡誌』 のスライドを掲載しています。

 以下、『越境としての古代[6]』の「神武は、筑豊に東征した」より

 試みに、嘉穂郡『射手引神社』の社傳を抄録し、以下諸神社の社傳、縁起もこれに准じ、それ等の古傳説が天神イザナギ神、宗像三女神、天忍穂耳尊、天孫ニニギの尊、神武天皇、景行天皇と相關聯し、おのがじゝなる社傳縁起の内容が、期せずして相關係してゐることに示唆を感じ、筑豊の山野-北九州の随所に、神武天皇を中心とする神社、地名が餘りに多く、しかも、それが天皇の御コースを語る分布を描き、神代史、古代史の時間と空間を如實に指示してゐることに注目して欲しい。
 文に曰く

 筑紫鎌の南端、豊前田川に接する地を山田の庄といふ、庄の東北に山あり帝王山と云ふ、斯く云ふ所以は、昔神武東征の時、豊國字佐島より柯柯小野に出でて天祖吾勝尊(天忍穂耳尊)を兄弟山の中峰に祭りて後、西方に國を覓め給はんとし給ふ時
    (中略)
 山上神社あり之を射手引神社と云ふ、祭る所の神三座天照大神、手力雄命、 景行 倭建天皇なり、天皇( 景行 倭建天皇)の御宇筑紫全島五月蠅の皆湧くが如し、土蜘蛛と稱する者多く山川の嶮を恃み、恣に黨類を集め、朝命を奉ぜず
    (後略)
                            (射手引神社々傳)

『神功皇后紀と魏使倭人伝』2017年1月29日、大任町講演時に上記の「射手引神社々傅」の記述の景行天皇を倭建天皇に訂正。

 射手引神社は嘉麻市上山田一五三九(旧嘉穂山田町大字上山田字杉町)に鎮座するが、元は、上山田下宮の五社稲荷神社の地(帝王山の麓)にあった。

 殊に、「宇佐島から田川の柯(阿の誤りか)柯小野に出でて、西方 に國を覓め給はんとし給ふ」の伝承こそは、「今我は是れ日神の子孫にして日に向ひて虜を征つは、此れ天道に逆る也。若かじ、退き還りて弱きを示し、神衹を禮ひ祭りて、背に日神の威を負び、影の随に壓ひ躡まん。」の「神策」と完全に表裏一体を成すのである。

 「中洲の皇都」を西に向かって討つ、神武の神策に基づく第二次東征、すなわち「宇佐への大迂回の意義」が射手引神社社伝には巧まずして残されていたことになる。

※ こちらが、 射手引神社社伝の東征ルート です。

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