「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 長教寺(「長教寺縁起」に神功皇后の古処山熊襲征伐の伝承がある)

以下、『越境としての古代[6]』の「神武は、筑豊に東征した」より

神功皇后の西征と山田

 熊襲は性懲りもなくまた叛いた。神功皇后はまた古処山の周辺に勢力をもつ土豪の羽黒熊鷲の征伐を行われ
たが、この時、肥前から平嶋と名のる者が強豪の士を引率してこれに加わった。
 熊鷲などが王化に服してこの地に蟄居したので、平嶋をこの地に留まらせて熊鷲を鎮圧させることにした。
 長教寺の開基平嶋七郎衞門はその後裔で熊ヶ畑長原に平嶋を名のる者が多いのはその後裔であるといわれて
いる。

※ 新説 日本書紀(第20回 神功皇后③)
 (令和4年7月15日、担当:全国邪馬台国連絡協議会九州支部、会場:嘉麻市nico)より

長教寺縁起(嘉穂郡誌)

画像「長教寺縁起」

 <所在地のGoogelマップ>