「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 帝踏石(たいとうせき) = 蹈石(ほみし)

『神功皇后紀と魏使倭人伝』2017年1月29日、大任町講演時に景行天皇の出身地を播磨から日向に訂正。

 播磨 日向の国から出た大帯日子命は、周防の娑麼から渡海し、火国を北上し、宇佐御木(豊前市)高羽(田川)緑野(添田町 緑川 來田見(北九州市小倉南区朽網)
と明らかに 豊国北伐 を行っている。

  

*.景行天皇、和風諡号は大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)。『播磨風土記』には大帯日子天皇とある。  

 帝踏石(北九州市小倉南区朽網西二一二八)が現実に存在。

<『日本書紀 景行紀』の十二年秋七月~冬十月>

大足彦忍代別天皇の豊国北伐  
 天皇遂幸筑紫、到豐前國長峽縣、興
行宮而居、故號其處曰也。
 卽留于來田見邑
、權興宮室而居之。
仍與群臣議之曰「今多動兵衆、以討土
蜘蛛。若其畏我兵勢、將隱山野、必爲
後愁。」則採海石榴樹、作椎爲兵。因
簡猛卒授兵、椎、以穿山排草、襲石室
土蜘蛛而破于稻葉川上、悉殺其黨、血
流至踝。故、時人其作海石榴椎之處曰
海石榴市、亦血流之處曰血田也。復將
討打猨、侄度禰疑山
 天皇、初將討賊、次于柏峽大野、其
野有石、長六尺・廣三尺・厚一尺五寸。
天皇祈之曰「朕得滅土蜘蛛者、將蹶茲
石、如柏葉而舉焉。」因蹶之、則如柏
上於大虛。故、號其石曰蹈石也。

<帝踏石>

「講演時のスライド(写真)」

 豐前國長峽縣(行橋市長峡)、來田見邑(小倉南区朽網)、海石榴市(行橋市椿市)、血田(小倉南区津田)、禰疑山(小倉南貫区山)。
 柏峽大野は、勝負の前に大きな石を蹴ったら柏葉のごとくに大空に舞った。その石を蹈石と曰ふ。
(=帝踏石

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