「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 日向=神武東征出発地/吾平阿蘇神社=彦波瀲武盧茲草葺不合尊の吾平山陵

※ 2020年版 神武東征(全5回シリーズ「壱」)
 (令和二年十二月十日、豊の国古代史研究会有料配信)

「吾平山御陵考」 佐野経彦
延喜諸陵式 日向吾平山上陵(彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊。在日向国。無陵戸。)
陵墓要覧 鹿児島県肝属郡吾平町大字上名(かんみょう)。洞窟。
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合の命の御陵に
ついて
豊前小倉企救の民佐野経彦つつしんで考えを
述ぶ
日向村(ひむきむら)のうちに吾平山(あひらやま)吾平山(ごへいざん)相良寺(あいらじ)③吾平山の頂上六、七合目と思われる南の山腹に彦波瀲武鸕鷀草葺不合の命の陵といって土を盛り立てた古い塚がある。④御平産(ごへいさん)の観音
 安政七年((一八六〇))申年の冬十二月二十五日、肥後国熊本の旅館で書いたものを、万延二年((一八六一))酉年の一月十日に浄書した。
現代語訳 平野雅曠
季刊『邪馬台国』四十一号掲載
「吾平山御陵考」 佐野経彦
吾平山御陵
吾平山御陵
吾平山御陵

 神武天皇の父にあたるヒコナギサタケウガヤフキアエズ(日子波限建鵜草葺不合命・彦波瀲武盧茲草葺不合尊)は、『古事記』では、天津日高日子波限建鵜草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、『日本書紀』では彦波瀲(ひこなぎさ)武鸕鶿草葺不合尊(たけうがやふきあえずのみこと)と表記。

『古事記』では左記の通り、神武天皇が東征に出発した土地の「日向」の記述に「 ○○」という
 国名の記載は無い。

  吾平山(ごへいざん)相良寺(あいらじ) = 吾平山(あひらのやま)の近くに日向(ひむか)という地名がある。

『日本書紀』、『古事記』の記述

 彦波瀲武盧茲草葺不合尊は西洲(にしのくに)の宮に崩りき。
 因りて日向(ひむか)吾平山(あひらのやま)の上の陵に葬りまつる。
 久之彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊、崩於
西洲之宮、
 因葬日向吾平山上陵。
『古事記 神武天皇』 東征
「何地に坐さば、平らけく天の下の政を聞こしめさむ。なほ(ひむがし)行かむ。」とのりたまひて、すなわち日向(ひむか)より發たして筑紫に幸行でましき。
「坐何地者、平聞看天下之政。猶思
行。」卽自日向發、幸行筑紫
『日本書紀 神代下 第十段』

『日本書紀・神武紀』の記述

『日本書紀 神武天皇紀』
 神日本磐余彦、諱は彦火火出見。彦波
瀲鸕鷀草葺不合尊の第四子なり。母をば
玉依姫と曰す。海童の少女なり。
 天皇、生れましながらにして明達し。
意礭如くます。年十五にして、立ちて太
子と為りたまふ。
 長りたまひて日向国の吾田邑の吾平津
を娶きて、妃としたまふ。手硏耳命を
生みたまふ。
 神日本磐余彥天皇、諱彥火火出見、彥
波瀲武鸕鷀草葺不合尊第四子也。母曰玉
依姬、海童之少女也。
 天皇生而明達、意礭如也、年十五立爲
太子。
 長而娶日向國吾田邑吾平津媛、爲妃、
生手硏耳命。

『日本書紀』の記述で、神武天皇の父、彦波瀲武盧茲草葺不合尊は、「因葬日向吾平山上陵。」とある。

 久しくして(ひこ)波瀲(なぎさ)(たけ)鸕鷀()草葺(がや)不合(ふきあへずの)(みこと)西洲(にしのくに)の宮に(かむさ)りき。因りて日向(ひむき)吾平山(あひらのやま)の上の(みささぎ)に葬りまつる。
吾平山

吾平山(福永説)

「吾平山陵」
 吾平山陵ともいい、鵜茅(うがや)葺不合(ふきあえずの)(みこと)を祭る。
 同尊陵地として鹿児島県に一つ、宮崎県に五つ、熊本県に一つ、計七カ所があげられる。
 宮内庁が御陵と定めているのは鹿児島県肝属郡の鵜戸神宮背後の速日峯山上の(いわや)である。
「吾平山陵」の説明版

 相良観音の近くに「日向」という地名