「東西五月行」の成立を述べるに当たって、次のような仮定を設けておく。
神功王朝は筑紫物部氏との共同によって武力革命に成功した王朝である。 神功(初代玉垂命)没後、「高良社大祝旧記抜書」に見られるように、長男(斯礼賀志命)は「竹斯国」(筑紫王朝、室伏志畔の云う倭国本朝)を統治し、 弟(朝日豊盛命)は「秦王国」(大芝英雄の云う豊前王朝、室伏志畔の云う倭国東朝)を治めた。(豊国に残る「朝日長者」伝説と関わる。)
『宋書』の「讃死し、弟珍立つ」の記事が、この兄弟間のことを指すなら、「竹斯国」は弟 珍 (朝日豊盛命)の系譜が継承したことになる。
(肥前国福母八幡社境内に「朝日天皇」の石碑が残されている。なお、讃・珍の継承については、
古賀達也氏に若干の先行論があるが、彼は筑後王朝一元論に立つ。)
しかしながら、「秦王国」にも珍の後継者が存続したのではないか。こう考えるとき、豊前王朝論(倭国東朝論)は、筑紫王朝(倭国本朝)の存在と矛盾することなく、 むしろ合理的である。