「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 邪馬壹國こそなかった( 『三国志』 より 『後漢書』 の成立の方が古い )

  

  
 

 
 
















■ 古田仮説の「邪馬台国はなかった」に正面から反駁することになった。

邪馬

(台)

邪馬

(壱)

 

「陳寿の見ていた後漢書」

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  陳寿の『三国志』「孫権謝夫人伝」の中に謝夫人の弟謝承が、後漢書百餘卷を製すの記述がある。したがって、
陳寿(233年 - 297年)は、謝承の書いた『後漢書』を見て、『三国志』を書いている。

  陳寿の書いた『三国志』に注を付けた裴松之(372年 - 451年)の『三国志裴松之注』の中に「謝承後漢書曰」
記述がある。

⇒ 謝承の『後漢書』は、250年頃(孫権の時代)に書かれている。陳寿の『三国志』は、285年に成立しているので
 『後漢書』の方が、35年も先に出来ている。

「范曄後漢書李賢注」

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 范曄(397年 - 446年)の『後漢書』に章懐太子李賢(651年 - 684年)が注を付けた『後漢書』にも「謝承書曰」
記述がある。

「謝承後漢書と翰苑」

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 『翰苑(かんえん)』は、唐の時代に張楚金によって書かれ、後に雍公叡が注を付けた太宰府天満宮に残る書である。
 『翰苑』の「高麗伝」に唐の時代に3種類の『後漢書』が存在した。『魏牧魏後漢書』、『范曄後漢書』、名前の無い
『後漢書』があり、名前の無い『後漢書』謝承の『後漢書』という結論に至る。
 張楚金の本文「憑山負海鎮馬以達都」に対し「後漢書曰」=(謝承の『後漢書』)の記述があり、後に「魏志曰」の
注の記述がある。
三国志』より『後漢書』の方が古い

「邪馬國こそなかった」

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 『隋書』「俀國伝」顕慶元年(656年)の記述は「・・・邪馬者也」、『翰苑』「倭国条」張楚金 顕慶五年(660年)
の記述は「憑山負海鎮馬以達都」、『范曄後漢書』「李賢注」儀鳳元年(676年)の記述は、「・・・邪馬」とあり、
唐の同時代に書かれている。

⇒ 唐の時代までは「邪馬(いち)國」の表記は無かった。すべて「邪馬臺國」の表記だった。

「邪馬國こそなかった2」

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 『范曄後漢書』「李賢注」の中の「其大倭王居邪馬國.案今名邪摩,音之訛也.」の記述で、「ヤマ」と読んでいる。
唐の時代までは、「ヤマダイコク」、「ヤマコク」はあったが、「ヤマイチコク」は無かった。

  



福永晋三先生のタイトル「邪馬壹國こそなかった -九州王朝論再構築に向けて-」の資料 「 26邪馬壹國こそなかった