「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 謎の石造りの地下水路 = 斉明天皇の「狂心(たぶれこころ)(みぞ)

※ 平成二六年七月二一日(月)講演資料より

[火山と宮処との地理的相互関係]

火山と宮処との地理的相互関係

高見大地

 火山と宮処との距離については、『日本書紀』の次のような記述から推定した
 (原文は付録Ⅱ参照)。

① 毒水の流入による河川や池の大量の魚類など水中生物の死
 (皇極天皇二年八月

② 青い笠を被った唐人の乗った龍と表現される噴煙
 (斉明天皇元年五月

③ 小墾田の宮殿建造に使用する森林の木々が火山ガスや酸性雨で朽ち爛れたため、
 建造中止(斉明天皇元年十月

④ 火山灰や火山毛が宮処付近に降下(天武天皇九年六月、同十三年八月)

 

<以下、『 狂心の渠と吉野宮 』のPage12~14より抜粋>

 斉明天皇の元年(六五五)夏に唐人の乗った龍のような噴煙が流れてきた。亜硫酸ガスが多いためか、この噴煙は
青色を帯びていた。
 小墾田に宮殿を建てようとしたが、用材を伐り出す森林が亜硫酸ガスのために朽ち爛れていたので建造をあきらめ、
飛鳥の岡本に宮を定めた。

 さらに森林破壊で荒れた河川の堤防工事などを始めたが、ちょっとした雨でも洪水、土石流を起こし、ついに完成を
見ず、労力の浪費に終わってしまった。

 六年(六六一)に再び噴煙が観測された。
 七年(六六二)五月には朝倉宮に移ったが、噴火があって、火山弾で宮が壊れ、硫黄の燃えるのが見えた。さらに
流れてきた火山ガスのためか、大舎人以下近侍たちが多数死に、七月には天皇も崩御された。
 折しも朝倉山越しに成層圏まで立ち昇る噴煙は、あたかも天皇の葬列を見守る鬼のように見えた。

 冬十月の丁酉の朔己酉に、
小墾田に、宮闕を造り起てて、
瓦覆に擬将とす。
 又深山広谷にして、宮殿に
造らむと擬る材、朽ち爛れたる
者多し。
 遂に止めて作らず。
 元年夏五月の庚午の朔に、
空中にして龍に乗れる者あり。
貌、唐人に似たり。青き油の
笠を着て、葛城嶺より、馳せて
胆駒山に隠れぬ。
 午の時に及至りて、住吉の
松嶺の上より、西に向かひて
馳せ去ぬ。

 斉明天皇元年の龍の飛行の道筋と同七年の大笠を被った鬼を、現在の地形図上に示したものである。星印が関係する
宮の推定所在地である。
 

  鶴見火山から平尾台に向かう太い実線の矢印が龍の飛んでいった道筋 であり、細い点線は岡本宮から龍の道筋の
目印となる山への視線方向を示す。

  龍(噴煙)は葛城山(現求菩提山)の後方の鶴見火山から立ち上がり、それが夏風に乗って胆駒山(現馬ケ岳)の 
 方へ消えた。太い実線はこの辺りの夏風の方向とよく一致している。朝倉宮から鶴見火山への太い破線の矢印は、鬼の
見える方向を示す。
 なお、薄い輪郭線は現在の海岸線で、その内側の濃い輪郭線は海抜10m 線からシミュレートした古代の海岸線である。