「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 御所ヶ谷神籠石(景行社)= 景行天皇の宮(百磯城の大宮処)

万葉集29、30、31番「近江の荒都に過りし時に、柿本朝臣人麻呂の作りし歌」

 柿本朝臣人麻呂が、忍熊王の拠った百磯城の大宮処の跡(御所ヶ谷神籠石)を実際に訪れ、その荒廃を嘆き、併せて忍熊王の悲劇的な最期を傷んだ歌。
 <『 宇治の京 』3ページより引用>

万葉集 二九
過近江荒都時
 柿本朝臣人麻呂作歌
 玉手次 畝火之山乃 橿原乃 日知之御世従 [或云 自宮]  阿礼座師 神之(盡) 樛木乃 弥継嗣尓 天下 所知食之乎 [或云 食来]  天尓満 倭乎置而 青丹吉 平山乎超 [或云 虚見 倭乎置 青丹吉 平山越而]  何方 御念食可 [或云 所念計米可]  天離 夷者雖有 石走 淡海國乃 樂浪乃 大津宮尓 天下 所知食兼 天皇之 神之御言能 大宮者 此間等雖聞 大殿者 此間等雖云 春草之 茂生有 霞立 春日之霧流 [或云 霞立 春日香霧流 夏草香 繁成奴留] 百礒城之 大宮處 見者悲(毛) [或云 見者左夫思毛]
万葉集 二九
 玉たすき 畝傍の山の 橿原の ひじりの御代(みよ)ゆ [或云 宮ゆ] ()れましし 神のことごと (つが)の木の いや継ぎ継ぎに 天の下 知らしめししを [或云 めしける] そらにみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え [或云 そらみつ 大和を置き あをによし 奈良山越えて] いかさまに 思ほしめせか [或云 思ほしけめか] 天離(あまざか)る (ひな)にはあれど 石走(いはばし)る 近江の国の 楽浪(ささなみ)の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇(すめろき)の 神の(みこと)の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 茂く()ひたる 霞立つ 春日の()れる [或云 霞立つ 春日か()れる 夏草か 茂くなりぬる] ももしきの 大宮ところ 見れば悲しも [或云 見れば(さぶ)しも]

*.青丹吉 平山越而( 奈良山 越えて)

*.ももしき:[枕]多くの石や木でつくり築く意から、「大宮」にかかる。

*.「そらにみつ 大和を置きて ・・・」→ 天満倭(あまみつやまと) (そらみつやまと)国 = 倭奴国(いぬこく)  

  したがって、漢委奴國王印(かんのわのなのこくおういん) → 倭奴(いぬ)と読み →「かんのいぬこくおういん

反歌
万葉集 三〇
 樂浪之 思賀乃辛碕 雖幸有 大宮人之 船麻知兼津
 楽浪(ささなみ)の 志賀の辛崎 幸くあれど 大宮人(おほみやひと)の 舟待ちかねつ
万葉集 三一
 左散難弥乃 志我能 [一云 比良乃]大和太 與杼六友 昔人二 亦母相目八毛 [一云 将會跡母戸八]
 楽浪(ささなみ)の 志賀の [一云 比良(ひら)の] 大わだ 淀むとも 昔の人に またも逢はめやも [一云 逢はむと思へや]

 神功皇后紀を歴史事実と認めるなら、『万葉集』30番、31番の「大宮人」、「昔の人」は神功皇后の軍に追い詰められ、「淡海」(古遠賀湾、飯塚市の  勢田 )に入水した「忍熊王」その人である。