「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


「天満倭」考―「やまと」の源流

反歌二首
 ― 人麻呂は反歌で、一転して、忍熊王の入水自殺を悼む。思賀の辛碕と比良とは現在不明。
  豊津の海側に下りたか。神功紀にはこの事件が詳細に記されている。次は、その一節である。

  是に、其の屍を探れども得ず。然して後に、日数て菟道うぢ河に出づ。武内宿禰、
 亦歌ひて曰く、

  淡海の海 齋多の濟(わたり)に 潜く鳥 田上過ぎて 菟道に捕へつ

  忍熊王は「淡海の海の齋多(せた)の濟」で入水自殺を遂げた。そこは海である。王の死を確認するため武内
 宿禰は屍を探索する。その屍は菟道河に上がった。
  菟道河はやはり人麻呂の歌から分かる。

  物乃部の 八十氏河の 網代木に いさよふ浪の 去辺(ゆくへ)知らずも(二六四)

  天の物部二十五部の居住したところの八十氏河と言えば、古遠賀湾に注ぐ、現代の相当上流に当たる遠賀川の
 支流を指すようだ。
  例えば今日の飯塚市近辺が河口になるあたりか。そこは古代田河道、すなわち菟狭(宇佐)に至る古道の近く
 でもある。菟道河の表記に合う。
  齋多の濟が頴田町勢田(鹿毛馬神籠石の近く)と仮定すると、この淡海に沈んでも満潮時には逆流して氏河
 (彦山川か)に押し戻されることも起こりうる。
  人麻呂はさらに次の歌も詠んでいる。

  淡海の海 夕浪千鳥 汝が鳴けば 情もしのに 古念ほゆ(二六六)

  これらの歌が、二九~三一番歌と関わるなら、人麻呂は豊津の淡海も古遠賀湾の淡海も逍遥し、「大津の宮」と
 「百磯城の大宮処」の両京の荒廃を詠い、「忍熊王らの死」を哀傷したことになろう。

おわりに

 「そらみつやまと」を徹底的に追究して、遂に万葉集や記紀の地名を再考証しないことには、文学も史書も解読
できないことを明らかにし得たようだ。
 すでにこの視点で、「飛ぶ鳥の明日香」さえも香春岳の南にあったことを確認しつつある。熟田津も天満倭の内に
にあった。倭奴国も女王国も当然のことだが、倭国だった。

 その「倭国の歌」すなわち「倭歌」も、この地を源流とする。 倭の源流と、移動した倭とを取り違えないかぎり、
記紀に書かれた歴史は必ず正しく復元できよう。
 また、万葉集の多数の歌も解釈が根本的に変わるであろう。今後の心躍る大テーマである。

 最後に、現段階で分かり得る「あきつしまやまと」を解説しておこう。三輪山(香春岳)の東南に宮を置いた神武は、
「豊葦原の千秋の長五百秋の水穂の国」を応用して「秋(みのり)津(の)洲(くに)倭(やまと)」とも名づけた
ようだ。同音の「蜻蛉」の表記があるのは、赤蜻蛉の群れて飛ぶ秋を連想したものであろう。

 天満倭(あまみつやまと)・虚見倭(そらみつやまと)・秋津洲倭(あきつしまやまと)・磯城洲倭(しきしまのやまと)と、
人の世の王朝と枕詞は交替し、その都度国土を拡張し、倭は終に東方の大和に遷ったけれども、倭の源流すなわち倭の
山河は、二十一世紀の筑豊の地に今も麗しい。

 倭は 国の真秀 畳な付く 青垣 山隠れる 倭し愛はし  (平成十六年如月朔記了)