「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 神功天皇の征西(気比の宮~穴門豊浦宮)

  詳細表示の地名
  

※1 「」が「」と読まれる例の地名を
  地図上に表示しています。

※2 追加した場所:常宮神社(敦賀市)
          :粟鹿神社(朝来市山東町)
          :彌伽宜神社(舞鶴市)

     倭国
(邪馬臺国)

  播磨の国  

  吉 備  





娑麼

 『  神功征西と倭国易姓革命 』と主として筑豊関係の伝説から想定される「神功皇后御行動図」
                                  『神功皇后の戦略』(永井功著)より

 神功 天皇 の呼称については、宋史日本伝中の『  王年代紀 』に記述があります。

 「 東鯷国 の実像」については、福永晋三先生の「 論文:東西五月行(統一倭国)の成立 」の18ページに以下の
 説明があります。

 また、8ページ東鯷国の出現(前漢代の東鯷国)の項に「 籠神社 」の記述があり、更に、11ページには、 後漢
代の東鯷国(丹波王国)と呉の往来=浦嶼子伝承(浦島太郎のおとぎ話が有名)
に関する「 籠神社 」の記述があり
ます。近くに「 浦島神社 」もあります。

 東鯷人の国は、丹波を中心とする銅鐸圏の二十余国の国であり、秦時に徐福が渡来し、漢代に
「鯷(しこ、実はサケ)」を呉地にもたらし、三国時代に呉兵が亡命し「鯷呉合作鏡」たる三角
縁神獣鏡を作った地
である。
 また、一時期、魏にも朝貢したが国交は樹立できなかった。その後も「親魏倭王」の倭国に属
することなく、晋代に至るまで倭国と並存もしくは対立した独立国であった。

 

  なお、「楽浪郡~倭奴国まで12,000里」の記述が、「帯方郡~邪馬台国まで12,000里」の記述に変わる点について
 説明したページ中の『隋書』「俀国伝」に「東西五月行」の記述があります。

 次に、18ページ鯷倭(しわ)の興亡に「神功天皇(神功皇后)の征西」の以下の記述があります。

■  気比の宮 を発した神功天皇(神功皇后)は、海人族を従え、 播磨の国を南下 、瀬戸内の海に
 出る。

■ 吉備の  鬼の城 温羅(うら)を滅ぼし、西進する。

■  牛窓 でも新羅の王子を退治し、遂に  穴門豊浦宮 (赤間神宮および隣の亀山八幡社)を落し
 入城。

■ 邪馬台国の王の一人、岡県主の祖熊鰐(くまわに)が帰順。

■ 続いて伊都(いつ)県主の祖五十迹手(いそとて)が帰順。

※ 新説 日本書紀(第18回 神功皇后①)
 (令和4年6月3日、担当:全国邪馬台国連絡協議会九州支部、会場:嘉麻市射手引神社上山田公会堂)より

日本書紀・仲哀天皇紀の「德勒津宮」は、神功皇后が征西に出発した敦賀市にある 常宮神社 である。

 常宮(じょうぐう)神社は、「つねのみや」とも言っていたようである。「常」は、「とこ」とも読むので「とこのみや」
でもある。したがって、常宮神社の前の海が、常津(とこのつ)になる。
 例えば、角鹿(つが)⇒ 敦賀(つが)となっているように、これは、朝鮮語の「N(エヌ)音」と
「R(アール)音」の交替である。
 つまり、常津(とこつ)⇒ 德勒津(とこつ)となった。

 『新説 日本書紀 第18回(2/6)神功皇后①』(令和4年6月3日)の動画に「德勒津宮(=常宮神社)」に
  ついて話されています。 こちら から動画を視聴頂けます。

日本書紀 仲哀紀 八年』 「岡県主の祖熊鰐、伊都県主の祖五十迹手の帰順」の記述

 八年の春正月の己卯の朔壬午に、筑紫に幸す。時に岡縣主の祖熊鰐、天皇の車駕を
聞りて、豫め五百枝の賢木を拔じ取りて、九尋の船の舳に立てて、上枝には白銅鏡を
掛け、中枝には十握劒を掛け、下枝には八尺瓊を掛けて、周芳の沙麼の浦に參迎ふ。
  (中略)

 又、筑紫の伊覩縣主の祖五十迹手、天皇の行すを聞りて、五百枝の賢木を拔じ取り
て、船の舳艫に立てて、上枝には八尺瓊を掛け、中枝には白銅鏡を掛け、下枝には十
握劒を掛けて、穴門の引嶋に參迎へて献る。

 

 穴門豊浦宮は、下関市幡生の 生野神社 と思われる。また、山口県防府市佐波に当てられている「周芳の沙麼の浦」
 は、北九州市東八幡区諏訪に鎮座する 枝光八幡宮 周辺と考えられています。
 『 新説 日本書紀(やまとのふみ)  第18回(9月15日)神功皇后② 『豊浦宮で仲哀死し測位す』もご参照下さい。

※ 穴門豊浦宮からつづく「 氣長足姫尊の豊国北伐 」のページに神功皇后の討伐のコースを地図に示しています。