「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 邪馬臺(やまと)國 = ( やまと)国 年表(豊国史)

※ ここにあり 邪馬臺国!
  -卑弥呼が祭った鷹羽の神々、始まりは『ひこ山』から-
 (令和二年一一月一日(日)、主催 田川広域観光協会、於 田川文化センター大ホール)より

弥生時代の倭国=豊国の歴史



 

 

 

 



 

 

 

 


660


300


 


 


100


 


14


57

 
 

大物主 八千矛の時代

 
 

火カグツチ(火男)
八俣の大蛇(八幡神)「天叢雲剣」

 
 

伊弉諾尊 細型銅剣の時代

 
 

遠賀川式土器 立屋敷遺跡

 
 

すずり、鋳造鉄斧 下稗田遺跡
前漢式鏡、刀子、絹 立岩遺跡

 
 

素戔嗚尊出雲王朝を創建

 
 

天照大神笠置山に降臨、倭奴国
天の金山の鐵から鏡製作

 
 

ウマシマデの東遷
後漢の光武帝金印を下賜



 

 

 

 







1C
 

107
 

121
 

146
189

200
 

239
 

260
 

320
  

 
 

(漢)委奴国栄える

 
 

倭面上国王帥升生口献上
金銀錯嵌朱竜紋鉄鏡下賜か

 
 

神武天皇即位邪馬台国創始

 
 

倭国大乱

 
 

卑弥呼共立

 
 

帯方郡(魏)に遣使
遠賀川流域に後漢式鏡

 
 

日本武尊「草薙剣

 
  

神功皇后征西

*.講演時のスライドのページへ

・弥生時代の実年代(弥生時代の始まりが500年遡る)、神代の倭人の記録(周代:紀元前1000年頃の王朝)
 神代の倭人の居住地、神代 ~ 神功の豊国、彦御山宝印 - 天御中主
・紀元前660年「倭成す大物主」

*.講演時のスライドのページへ

※ 古代史フォーラム 「古代田川に天皇がいた2」
 (平成30年3月21日(水)、於:福岡県立大学講堂)より

*.講演時のスライドのページへ

・呉越同舟(孫子)の故事は、歴史史実
・『松野連系図』の最初が、呉王夫差
・越の人々がやって来た土地に遠賀川式土器が出現した

前14年
  以前

 素戔鳥尊より前の時代「倭奴(いぬ)の成立以前= 出雲王朝の記録か 

饒速日(天照大神)葦原瑞穂國の 笠置山 に降臨。
饒速日は古遠賀湾沿岸部を領有、中洲皇都を建設。( 天神降臨 

天物部八十氏が筑豊の山や海を領有し、「山島に居し、分かれて百余国を為す」。

 天満倭国 倭奴(いぬ) が成立。

倭奴国王、漢光武帝に遣使。 金印  を受く。

(『先代旧事本紀』から 天香語山命  が、倭奴国王かと推定。)

後70年

磐余彦尊(神武天皇)誕生。

*.神武東征前史:神武天皇の生誕地(山都町の 斗塩 )および
  東征の出発地(山鹿市の 日向/吾平 

後83年

 お佐賀の大室屋 (吉野ケ里遺跡) 陥落鸕鷀草葺不合尊の佐賀平野攻略戦。
(日向 ⇒ 筑紫)

倭面上国王帥升、後漢の安帝に 生口(食肉用奴隷)一六〇人 を献ず。
(この倭面上国王は、天孫本紀に云う 天忍人命 か。)
この頃から倭奴国乱れ、以後、漢への遣使が途絶える。

*.『生口』という名の島『 生口島(いくちじま) 』が瀬戸内海にある。

冬十月、磐余彦尊(神武天皇)、諸皇子と 第一次東征 開始。

十一月、 岡水門 に至り軍備を整える。

*.神武東征:筑紫(西)⇒ 豊国(東)を征服

春三月、古遠賀湾を逆上り、夏四月、長髄彦と交戦するが敗れる。
兄の五瀬命が矢にあたり負傷。

博多湾の 草香津 へ帰還。五月、五瀬命、死去。 竈山 に葬る。

115~

 117年

3年間、竈門山(宝満山)の高千穂の宮で再軍備。(乙卯~丁巳の3年間、翌年が戊午)

春二月、第二次東征 豊国北伐 )開始。
日を背にして戦う神策 を実行に移す。( 西に向かって討つ 

速吸之門(速吸日女神社)に至り、 珍彦(椎根津彦) を道案内とする。 菟狹(安心院妻垣神社) 
至り、一柱騰宮に入る。

数ヶ月、 狹野嶽(求菩堤山) に通い、大天狗( 豊前坊 )及び八咫烏(求菩堤山八天狗)族と
同盟を結ぶ。この間、 吉野の国樔 (玖珠)部らを巡撫。

六月、「天皇獨り、皇子手研耳命と軍を帥ゐて進む。既にして皇師中洲に趣かんと欲す。」

七月、頭八咫烏の案内で 英彦山 を下る。

八月、菟田の穿邑に至る。菟田縣の血戦に勝つ。

九月、 天香山(香春岳) 攻略にかかる。

十月、赤銅八十梟帥を国見丘に破る。

十一月、彦山川水系を南下し嘉麻川水系に入る。

 東征コース は、鞍手郡誌・射手引神社社伝のページを参照下さい。)

「十有一月の癸亥の朔己巳に、皇師大きに拳りて、磯城彦を攻めむとす。」= 立岩丘陵 の激戦。
 片島 に上陸。熊野の神邑を攻撃し、磯城彦を滅ぼす。
天磐盾(  立岩神社 )に登り、天孫に祈願する。

十二月、長髄彦との最後の決戦に臨む(戦いの場所は、 鳥見(頓野) :鳥美野の戦い)。
苦戦を強いられたが辛勝し、長髄彦を殺す。

「十有二月の癸巳の朔丙申に、皇師遂に長髄彦を撃つ。」

金印を授かった倭奴国の滅亡

*.長髄彦(饒速日の義弟に当たる)は、年代が合わず、『 饒速日の系譜 』で天忍人命?、
  天忍男命?かと推定。饒速日の別の末裔、瀛津世襲命神武に帰順したようだ。

春二月、「諸將に命じて士卒を練ぶ。」倭奴国の残存勢力の掃討。

*. 宮若市 の「犬鳴(犬鳴山、犬鳴川、犬鳴峠)」の地名は、倭奴国の王族が殺された土地。

三月、香春岳 一ノ岳の東南、 橿原の地 に邸宅の建造を命じる。一旦、陸路で筑紫の
 宝満山 玉依姫命の零位を祭る)へ 凱旋する。

大物主の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃に迎える。天神(饒速日)の血統を入れる。

辛酉年の春正月、神武天皇、橿原宮で即位する。(やまと)王朝(邪馬臺國の成立。

二月、論功行賞。「頭八咫烏、亦賞の例に入る。」

求菩提山・英彦山から彦山川水系に沿って、今日の田川郡赤村より 烏尾峠 辺りまでの
 飛ぶ鳥の明日香 の地の領有を認められたらしい。

春三月、神武天皇、崩御。享年67歳。( 神武天皇の没年 についての記述。)

夏四月、手研耳命、即位。(やまと)国(旧倭奴国)を巡行する。
 豊秋津島倭(とよあきつしまやまと) 」という号を始めた。

 畝尾山東北陵 に埋葬された。(畝尾山=香春岳 一ノ岳の東北の位置にあたる陵)

太歳己卯、神渟名川耳尊 手研耳命 を殺害し王位を奪う。

太歳庚辰、神渟名川耳尊(綏靖天皇)即位。葛城に都す。

*.葛城=かつき 、葛城高丘宮 杉守神社 

夏四月、神八井耳命、薨ず。畝尾山の北に葬る。

綏靖天皇の没年は定かではないが、倭の桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのうえのみささぎ)に葬る。
田川市糒の 天神山古墳 の1基か

※ 倭国大乱 ⇒ 「豊国 対 火国」

「魏志倭人伝:其の国もまた元々男子を王として70 - 80年を経ていた。倭国は乱れ、何年も
攻め合った。」の記述は、
神武即位(121年)~崇神崩御(198年)の77年間にあたり、 倭国大乱 桓帝霊帝の治世の
間( 146年 - 189年 )、後漢の霊帝の光和年間(178年 - 184年)等)の記述も中国史書にある。
(この時期の墓が、 宮原遺跡 で日本最古の前方後円墳か?)

174年

崇神天皇、即位。

 174年~180年秋 崇神天皇  『新説 日本書記』より

198年

戊寅十二月、崇神天皇、崩御。(古事記より)

(196~220 建安年間) 卑弥呼  共立か。(魏志 韓伝・倭人伝、日本書紀 神功皇后紀より)

*.新羅からやって来た  白石の童女 が、卑弥呼?(崇神紀にある大物主神の妻、倭迹迹日百襲姫命

「将軍衛温諸葛直を遣はし、甲士万人を率ゐて海に浮び、夷州(推定狗奴国)および
亶州(推定  東鯷国 を求む」、(三国志呉書「孫権伝」黄竜二年より)

倭の女王卑弥呼、使を遣はし来聘す。(新羅本紀一七三より)

景初二年六月、邪馬薹國の女王(にして神武の後継者たる)卑弥呼、魏の帯方郡に
大夫難升米等を遣はす。(魏志)

魏使邪馬薹(やまと)國に至る
(正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭国。

正始4年、卑弥呼は魏に使者として大夫伊聲耆掖邪狗ら8人を送り、生口と布を献上。
掖邪狗らを率善中郎将とした。

正始6年、皇帝(斉王)は帯方郡を通じ難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜した。

正始8年、倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を
遣わし狗奴国と交戦状態を説く。

太守は塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、
檄をつくりてこれを告喩す。

正始9年、卑弥呼以て死す。(狗奴国との戦いに敗れて自決させられた。)

*.墓の記述は、「  大作冢、徑百餘歩 」とある。

249~

 255年

更に男王を立てしも、國中服せず。更更相誅殺し、当時千余人を殺す。

泰始2年、卑弥呼の宗女 薹與  年十三なるを立てて王となし、國中遂に定まる。
男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二牧・異文雑錦二十匹を貢す。

(中略)

  ※ 福永晋三先生のタイトル「邪馬臺国の位置と年表」の資料 「 邪馬臺国の位置と年表改訂版 」です。

 

 

369年

邪馬台国、神功天皇(皇后)に滅ぼされる。「水沼の皇都」が築かれ遷都。これを「新・邪馬台国」と名づけた。

  (「 氣長足姫尊の豊国北伐 」を参照下さい。)

390年

神功天皇の没年と推測したのは、『 吉山旧記 』の「仁徳天皇七十八年(三九〇)三月十一日薨去」の記事。

391年

(辛卯)、応神天皇(『宋書』に云う倭讃)が高句麗を攻撃(広開土王碑)。(「 東西五月行の成立 」の20ページより)

406年

宇治天皇即位? (「 宇治の京 」の27ページより)

408年

宇治天皇三年が、三九〇年の後の『 万葉集七番歌 』の左注にある「戊申年」のあたる。

409年

大鷦鷯天皇元年? (「 雀取らさね 」の13ページより)

410年

大鷦鷯天皇二年? 速総別王(隼別皇子)の乱(「 雀取らさね 」の13ページより)

413~

 502年

 紀氏王権の成立(倭五王:讃、珍、濟、興、武) 」のページに続く。(倭五王時代の年表:シナの史料の記述より)

5世紀後半、倭武の常陸巡幸の頃、「 東西五月行 」の成立

486年

顕宗天皇二年 倭王武(倭が武大王、倭武天皇)の御代に 久留米市朝妻 の宮殿で曲水の宴が開かれる。