「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


  韓半島~倭国(豊国)までの里程

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●ソウル

●釜山

巨済島

●平壌

●沙里院

総里程:12,000里

海岸線に沿って水行:7,000里

楽浪郡~帯方郡の距離は?

1,000里

1,000里

1,000里

※  周里 :1里(67.5m)→ 1,000里(67.5km)

 

 『 出雲王朝の記録か 』 の『論衡』に「倭人」の記述、『漢書 地理誌』に「樂浪海中有倭人」の記述がある。

  『出雲王朝の版図は?』 に示すように、「銅鐸文化圏」が出雲王朝(素戔鳥尊)。「銅矛文化圏」が朝鮮より降臨
 してきた饒速日(天照大神)の王朝であるが、  吉野ヶ里遺跡  に出土した銅鐸が示すように銅鐸文化圏に銅矛文化圏が
 侵略してきた。

  前14年 饒速日(天照大神)が、豐葦原瑞穂國の  笠置山 に降臨。

 

 天満倭国=倭奴国成立 』 については、後57年に倭奴国王(  天香語山命  か)が漢光武帝に遣使して「金印」を
 受けた。

 

 倭奴国と樂浪郡の里程 』については、翰苑(かんえん)に書かれている後漢書(謝承後漢書)に曰く、  樂浪郡治 
 倭奴国の都( 天香山 付近)までの距離が、12,000里である。

  『原の辻貿易=楽浪式土器伝播図(倭国)』に示されているように「楽浪郡」から素戔鳥尊の「天香山」を中心と
 した場所まで。更にその後、出雲に追放された銅鐸を祀る素戔鳥尊の子孫も交流している。

 

 後漢書(謝承後漢書)=翰苑(かんえん) 』によれば、107年の時点では、まだ「倭奴国」で、「倭国」は成立して
 いない。「倭面上国王師升」と記述されている。

 

 歩と里の概念:倭人は周里を用いた 』、周の時代に樂浪郡治から倭奴国の都までの距離を12,000里と「周里」で
 倭人が測った距離である。

 

 神武東征と魏志倭人伝 』の資料で示すように118年に「倭奴国滅亡」した。

 

 『 倭国=邪馬台国創始 』については、121年 神武天皇即位 から  倭国大乱 146~189年)を記述。
 倭国大乱時の時期にあたる墓が、香春町宮原の 宮原遺跡 (日本最古の前方後円墳?)である。

 

 『 卑弥呼即位から遣魏使 』 については、200年?が「  卑弥呼 」の即位。238年に魏の  帯方郡 へ遣いをおくり、
 240年に魏使が邪馬台国へ来る。

*.新羅からやって来た  白石の童女 が、卑弥呼?(崇神紀にある大物主神の妻、倭迹迹日百襲姫命

 

 『 帯方郡から倭・女王國に 』 の記述の通り、魏使は帯方郡から来る。翰苑(かんえん)に書かれている「謝承後漢書
 では、樂浪郡から倭国の都までの距離が、12,000里であるが、「魏略」では、帯方郡から女王國に至る距離が、
 12,000里の記述に変わる。

■ 帯方郡から海岸線に沿って水行、韓國を経て狗耶韓國へ至る:7,000里

■ 狗耶韓國から海を渡り、対馬国(對馬國)へ至る:1,000里。海を南へ渡り壱岐国(一支國)。海を1,000里渡り
  末盧國 。東南へ500里 伊都國 へ至る。(但し、伊都国のリンク先は、伊都国の津=新北です。)

■  女王卑弥呼の都 は、田川郡。香春から遠くない位置である。

 

  末盧国から邪馬臺国まで陸行 については、『 魏志倭人伝を解く!宗像(神湊)が末廬国なら邪馬台国は田川だ 』
 ページをご覧下さい。

 

*.南宋の『魏志倭人伝  紹興本 』は、「對馬國」、「一大國」と記述されているが、「一大國」は誤植である。

 また、福永晋三先生のタイトル「邪馬壹國こそなかった -九州王朝論再構築に向けて-」の資料「 26邪馬壹國 
 こそなかった 」の5~6ページに下記の記述があります。

 ③の『魏略』に、「對馬國」「一支國」の表記があり、南宋  紹煕本  『三国志』のいわゆる「魏志倭人伝」中の
對海國」、「一大國」等、紹煕本がいかに誤植の多い版本であるかが知られるのである。