「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 魏志倭人伝を解く! 宗像(神湊)が末盧国なら邪馬台国は田川だ
(平成28年8月7日、於 田川市民会館講堂)の講演より
■ 邪馬臺国(倭国)創始
邪馬臺国は、「やまとこく」です。「やまたいこく」という読み方は、もう止めています。定説にありませんが、
西暦121年「辛酉年の春正月の庚辰朔に天皇、橿原宮に於いて帝位に即きたまふ。」
(神武天皇の即位=邪馬台国の初代天皇の即位)
『魏志倭人伝』の中程より後にある有名な一節から始めます。
「 其の国、本亦男子を以て王と為し、住まること七、八十年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年、
乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰ふ。」
ここに邪馬台国には、最初は男王(大王)が7、80年いたとある。この国を邪馬台(やまと)国と呼んでいるので、
その最初の男王といえば、神武天皇しかいない。
卑弥呼は、神武天皇即位から7、80年後に即位した女王であるという位置付けになる。
『魏志倭人伝』は、魏志倭人伝のみで読んではいけない。『魏志倭人伝』(三国志)は、西暦283年頃に出来ている。
多くの学者達のほどんどの方が『古事記』、『日本書紀』、『萬葉集』等と『魏志倭人伝』を繋げて説明した人が
いなかった。
『魏志倭人伝』の卑弥呼の時代、魏に遣いを出した西暦238年の前後しか扱わない。また、『魏志倭人伝』の前後の
シナ王朝の歴史書『後漢書』との比較。『旧唐書』との比較。更には『宋史 日本國』との比較などをすべて行った人は
いない。
もう一つ『古事記』、『日本書紀』の特に『日本書紀』の中で戦後の史学は、戦前の神話教育をし続けて大日本帝国を
形作ったきたが、連合国に敗れた事により、それで戦前の教育は否定された。
戦後の歴史は、神武天皇から神功皇后までは、架空の存在である。第15代の応神天皇からが実在の天皇である。
この内容で戦後71年間歴史教育は行われてきた。
したがって、戦後の研究では、神武天皇や神功皇后を扱うこと自体が、それは日本の歴史を知らない者の言っている
ことであるとして、学会からは相手にされない。私もこの20年間、古代史の研究に取り組んでいるが、相手にされて
いない。神功以前の研究をいえば、国立大学の教授にはなれない。このような事で『魏志倭人伝』を解く上で非常に
大きな歪みであった。戦後70年歪んだままである。それを少し正していきましょう。
■ 『魏志倭人伝』本文批判
『三国志』を書いた陳寿は、謝承の『後漢書』を見て書いた。( 陳寿の見ていた後漢書 )
また、後に陳寿の『三国志』に注を付けた斐松之も「謝承後漢書曰」と書いている。時代で言えば、『後漢時代』の
方が『三国時代』より古いが、通説では、陳寿の書いた『三国志』が、283年に成立した。
范曄の『後漢書』は、400年代(5世紀)に出来たので、『三国志』の方が先に出来たとされてきた。陳寿自身が、
『三国志』の中で、『謝承後漢書』について書いている。
謝承は、呉の孫権の時代の人であり、『後漢書』は、250年頃に出来ており、陳寿の『三国志』より約30年くらい先に
できている。
范曄後漢書李賢注 にも「謝承書曰」とあり、唐の時代にもまだ、謝承の『後漢書』は、残っていた。
■ 邪馬壹國はなかった
現在残っている『三国志』は、「邪馬壹國」と書いているが、唐の時代の 『隋書』俀國伝、『翰苑』倭国条、
『范曄後漢書』李賢注のすべてに「臺」の文字が使われており、邪馬壹国は無かった。( 邪馬壹国こそなかった )
■ 楽浪式土器伝播図
弥生時代中期後半の朝鮮半島との交易活動=原の辻貿易が、示す「楽浪式土器伝播図」が、『魏志倭人伝』のルートと
重なる。( 樂浪郡徼の位置と 楽浪式土器伝播図 )
※ 神武第二次東征(豊国北伐) により西暦121年、神武天皇即位。これで倭奴国滅び邪馬台(やまと)国成立。
これでやっと『魏志倭人伝』に入っていく。ここまでの豊国の長い歴史を通説の学者は誰も説明しない。『魏志倭人伝』
のみ扱っているだけでしょう。神武天皇から神功皇后まで足跡の伝承が、豊国のあちらこちらに残っているにも関わらず、
戦後史学は、その天皇や皇后を架空の存在として扱ってきた。その学者たちに『魏志倭人伝』が解ける訳が無い。
最初から邪馬台国は、ここ豊国である。それを証明する為に頑張ってきた。
■ 西暦200年 卑弥呼即位から 240年 魏使、倭(邪馬台国)に至る(詣倭國) ( 西暦200年~238年まで )
「倭」の訓読みは「やまと」であり、女王卑弥呼の国「邪馬台(やまと)国」である。(邪馬臺国の 「臺」は、「と」 )
と読む。
『魏志倭人伝』 帯方 ~狗邪韓国~ 対馬国
『魏志倭人伝』 一支国 ~ 末廬国
*.「一大国」は誤植、一支国。 原の辻遺跡 。末盧國では、魚やあわびを捕えるとあり、宗像市の
鐘崎は、「海女」発祥の地でもある。
※ 『 翰苑 』の中に「 魏略 」という「謝承後漢書」と「三国志」の間に当たる本があり、「魏志倭人伝」と同じ
ような記事が書かれている。
その「魏略」では、明らかに對馬國、一支國と書かれている。「魏志倭人伝」も對馬國、一支國と書かれて
いなければいけなかったが、南宋の時代(12世紀)の版本が誤植しただけである。
『翰苑』という9世紀、日本の平安時代の貴族が書き写した手書きの本の方が正しい。「三国志」の前の本に
同じ記事が書いてある。どの本も一支国から海を千里(約70km)行った所に末盧国がある。
一番古く出てくる一万二千里の距離は、帯方郡からではなく、樂浪郡から倭国(香春)までであった。南宋
時代の版本である『 紹興本、紹煕本 』の「魏志倭人伝」は、誤植されている。
■ 宗像を末盧国に特定
氣長足姫尊(神功天皇)の豊国北伐が『魏志倭人伝』を解くキッカケとなった。「伊都県主の五十迹手が帰順」が
あり、「伊都」の地名が出てくる。
現時点では、順序が確定してないが、忍熊王を殲滅した後に『日本書紀』では直ぐに儺県へ行く。 曩祖八幡宮
(のうそはちまんぐう)の曩(のう)より『魏志倭人伝』の奴國=儺県ではないか。
神功皇后の時代、卑弥呼より120年年後の時代の『日本書紀』に『魏志倭人伝』の地名が出てくる。ここまで、幅を
広げて検討しないといけなかった。
神武天皇から神功皇后までを架空扱いをしたら、『古事記』や『日本書紀』に出てくる地名と『魏志倭人伝』の
地名とを比較検討出来ないでしょう。
だから、何時まで経っても『魏志倭人伝』の地名が特定出来ないでいる。専門学会は、そういった自己矛盾に陥っ
ていた。
次に神功天皇は、勝門比賣の討伐に出かけた同じ場所の記述が、『古事記 仲哀記』では「筑紫の末羅の縣の玉嶌
の里に」、『日本書紀 神功紀』では「火前國の松浦縣に至りて、玉嶋の里の」と記されている。
『古事記』、『日本書紀』が書かれた時代は、律令制の時代であり筑紫国と肥前国の区別は出来るハズである。
通説では、肥前の松浦としてきた。壱岐から真っ直ぐ南に下りた唐津市呼子町の辺りとしてきた。しかし、壱岐から
は、500里もない。
『魏志倭人伝』には、一支国から末盧国までは海を千里(約70km)渡ると記されている。片や南の方角、もう
一方は東の方角となる。90度方角が異なる。
この「まつら」の場所が、120年後の『日本書紀』と『古事記』に書かれている。
どちらの国の「まつら」の場所が正しい? 元々、何処にあったか? それは、『古事記』に書かれている筑紫に
あったものが、『日本書紀』で肥前に移っている。
宗像にあった末羅の地が、神功天皇の勝門比賣が滅ぼされた事件をキッカケにして肥前の松浦に移った。宗像こそ
が、失われた末羅の地だった。
『魏志倭人伝』に記されているとおり壱岐の原の辻遺跡から千里(約70km)海を東の方角には行ける。そこが
神湊のある宗像である。
ここを末盧国と決定した比定の根拠です。
■ 末盧から邪馬臺国に至るまでの 陸行の国および周辺21ヶ国(現時点で判明している国)の場所は、 こちら の
ページです。
『魏志倭人伝』 伊都国~奴国~不弥国
*.伊都は、「いと」とは読まない。「 いつ 」と読む。
『魏志倭人伝』 邪馬臺国、投馬国
*.南へ水行二十日の投馬国は、末盧國までが水行十日で、後水行十日の所は、「 立岩遺跡の人骨 」の
腕の貝輪(護法螺貝)が 示すように産地である 沖縄 辺りと思われる。
*.国名の発音は、唐の時代の漢音ではなく、それ以前の発音の 呉音である。
『魏略』の方が先に、女王国の敵対国「狗奴國」と記述あり
■ 二回目以降、魏志が上陸したのは、伊都国の津である。
『魏志倭人伝』 伊都国の津
*.伊都国の津は、『万葉集 八番』の熟田津であり、『日本書紀 神功紀』の和珥津とが同じ場所である。
そこが伊都国の津= 新北 。
■ 卑弥呼の死後、大きな墓を造る。その後、臺與(とよ)が即位。
『魏志倭人伝』 卑弥呼の死後