「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 福原長者原遺跡(屋根瓦が出土されていない、屋根が板葺き)= 近つ飛鳥板葺宮

壬申の乱のあらまし(平成29年11月18日、於 赤村村民センター)講演より

 皇極天皇四年(六四五)六月十二日、中大兄皇子らが飛鳥板蓋宮大極殿内で蘇我入鹿を討ち、翌日、入鹿の父の蘇我蝦夷が自害する。乙巳の変

 於是、中大兄、戒衞門府一時倶鏁十二通門、勿使往來、(中略) 佐伯連子麻呂・稚犬養連網田斬入鹿臣

 大極殿十二門には、飛鳥板蓋宮での入鹿誅伐のとき、十二門を守り、かつ誅伐に参加した氏族の功を永久に記念するために氏族名を付けたとの説がある。
  佐伯連子麻呂・稚犬養連網田・海犬養連勝麻呂三人の氏族名は、十二門中に藻壁門(佐伯)・皇嘉門(若犬養)・安嘉門(海犬養)として遺されている。

 宮城十二門の一覧 ・・・ 図は、平安時代の物で、元々は、「上東門」「上西門」が無く、十二門だった。

「宮城十二門の図と門の一覧」

 福原長者原遺跡 平面図

「遺構の平図面」

――― Ⅰ期の遺構

――― Ⅱ期の遺構

 赤のⅡ期の以降が、藤原宮跡だろうと思われる。持統天皇が造営された藤原宮が、後に奈良に遷る。

 赤より一回り小さいのⅠ期の遺構が、飛鳥板葺宮跡であろうと思われる。

 こちら豊前の宮跡や廃寺跡からは、瓦の破片が出土される。
 ところが、この福原長者原遺からは、屋根瓦が、一枚も出土されませんでした。「板葺宮」じゃないですか?
屋根が板葺だから瓦が出土されない。

 Ⅰ期大溝とⅡ期大溝

「写真(遺構)」

Ⅰ期の遺構が、推定 飛鳥板葺宮 


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