「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 中元寺遺跡(諏訪神社の隣の田圃)= 諏訪神社の由緒に「中元司(ちゅうがんじ)」とある

 白村江の戦いと壬申の乱(平成29年7月28日、於 ももち文化センター)講演より

『襲国偽僭考』 ・・・ 鶴峯戊申が九州年号と最初に言った人です。朱雀の記事の中に謎の年号がある。
            中元は、「ちゅうがん」と読む。

朱雀
 天武天皇元年壬申、朱雀元年とす。
 一説には、白雉・朱雀の二年号を
 しるさずして、ことに中元・果安
 の二年号をしるしていはく、天智
 帝之時、中元四年
(671=日本書
 紀天智十年)
に終る。
 又曰く、按ずるに戊辰
(668=
 日本書紀天智七年)
を元年と為す。
 天武帝之時、果安。又曰く、按ず
 るに年数を審らかにせず。
「襲国偽僣考 海西鶴峯戊申季尼著」

 

<諏訪神社>

「写真」

添田町諏訪神社の由緒には「中元司」と書かれている。

諏訪神社の隣の田圃に中元寺遺跡が残されていた。
「中元寺遺跡群 : 発掘調査報告書 2 」(添田町教育委員会 )
がある。

 天智天皇が「中元」という年号を立てた時にその4年間の
間に出来た役所だから「中元司」という。
 諏訪神社の隣の田圃から出た遺跡が添田町の岩本さんに
よれば、奈良時代の官衙遺跡から掘立柱跡が出ている。
 その遺跡の前を添田町から川崎町へと流れている川を
中元寺川という。
 鶴峯戊申しか書いていない「中元」という年号を有する
役所跡とその役所の名前の川が今も流れている。

 

 <所在地のGoogelマップ>