「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 菅原神社(田川市(ほしい))、後方が天神山古墳 = 綏靖天皇の桃花鳥田丘上陵か

※ 倭国大乱と卑弥呼(平成30年7月8日、於 福岡県立大学大講義室)講演より

<綏靖の陵>

 (やまと)桃花鳥田(つきだの)丘上(おかのうえの)(みささぎ)に葬る

 香春岳一ノ岳の南西約5㌔に田川市糒の天神山1~4号墳がある。この付近は「月の輪」とも呼ばれており、陵はこの中の1基と考えられる。

 2代綏靖天皇は、西暦140年に即位した。「葛城に都をつくり高丘宮(たかおかのみや)という。」北九州市八幡西区上香月の 杉守神社 の地である。

以下、講演時のパワーポイントの内容です。

 西日本新聞に連載した『新説 日本書紀』で書いた内容である。

 第2代天皇は、綏靖天皇となっているが、「長(た)けて、久しく朝機を歴(へ)たり」と日本書紀に書かれている。という事は、手研耳命大王が、第2代である。綏靖天皇では無い。

 西暦139年、手研耳命が、異母弟である神八井耳命と神渟名川耳尊(後の綏靖)を殺害しようとする。古事記・日本書記では、手研耳命の乱と書かれている。

139年
(手研耳命、)(ふたり)の弟を害せむことを
 図る。
 時に、太歳(おおとし)己卯(つちのとう)
」。
136年春3月
神日本磐余彦天皇崩ず。時に神渟名川
 耳尊、特に心を喪葬の事に留む。其の
 庶兄(いろね)手研耳命、行年(すで)()けて、久し
 く朝機を()たり
」。
手研耳命(たぎしみみのみこと)、暗殺さる
倭国大いに乱れ、歴年(146~189)
主無し
「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
綏靖天皇

 

 神八井耳命と神渟名川耳尊は、先手を取る。その時に母である伊須気 余理比売が、息子たちに危険を知らせる倭歌が、古事記にある犀川よ 雲立ちわたり 畝尾山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとすである。

 この和歌にある犀川が、赤村から行橋に流れている今川である。みやこ町に合併される前に旧犀川町があった。その犀川である。
 畝尾山は、香春一ノ岳である。田川の話である。

 神八井耳命が、手研耳命を射殺そうとするが、手足が震えて矢を射ることが出来なかったので、神渟名川耳尊が兄の持つ弓矢を取って、手研耳命を射殺した。
 これは、歴史の逆転であり、綏靖から手研耳命を殺したという事である。

 (やまと)桃花鳥田(つきだの)丘上(おかのうえの)(みささぎ)(田川市(ほしい)の天神山古墳4基中の一か、附近に月ノ輪)に葬る
綏靖の陵
 神渟名川耳尊がその兄の持つ弓矢を取って、手研耳命を射る
 一の矢が胸にあたり、二の矢が背にあたり、ついに殺した。
犀川よ 雲立ちわたり 畝尾山 
 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす
「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
綏靖天皇

 

 綏靖の陵は、桃花鳥田丘上陵とあり、桃花鳥田(つきだ)と読む。その陵を田川市(ほしい)の天神山古墳としたのは、近くに月ノ輪という字名が残っている。

 天神山古墳を航空写真で見ると前方後円墳である。綏靖の母親は、物部氏の出身であり、祖は、饒速日尊で天神である。だからここが、天神山古墳という。

 この天神山古墳に綏靖天皇は葬られたのではないかと思っているが、今は、何も残されていない。しかし、有難いことに、ここに菅原神社が残されている。菅原神社を言い換えれば、天神様である。

桃花鳥田丘上陵か(田川市糒の天神山古墳)

「写真(Google Earth)」

 

 新説 日本書紀(やまとのふみ)  第10回(5月26日)欠史八代 「倭国大乱」40年余君主なし』もご参照下さい。

 

 <所在地のGoogelマップ>・・・ 菅原神社の後方が、天神山古墳(前方後円墳)