「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 新北(にぎた)本司(熱田社古宮)= 新北津跡:伊都(いつ)国の津、熟田津(にきたつ)和珥津(わにのつ)

 魏志倭人伝を解く! 宗像(神湊)が末盧国なら邪馬台国は田川だ(平成28年8月7日、於 田川市民会館講堂)の講演内容の「 末盧国からの陸行および邪馬台国周辺国 」の地図のページを追加しました。伊都国奴国の比定場所が修正されています。

 始めて一海を度る千余里、対馬国に至る。・・・ 又、南一海を渡る千余里名づけて澣と曰ふ。一支国に至る。・・・又、一海を渡る千余里末盧国 田熊石畑遺跡 )に至る。 ・・・東南陸行五百里、()()に到る。・・・東南して() 亀山神社 )~( 鹿毛馬神籠石 )に至るまで百里。

  女王卑弥呼の都 は、田川郡。香春から遠くない位置。

 宗像市の田熊石畑遺跡(宗像高女跡)を末盧國、新北伊都(イツ)国の津と比定している。『万葉集 八番歌』の熟田津と『日本書紀 神功紀』の和珥津は同じ場所であり、『魏志倭人伝』の伊都国の津である。

  翰苑(かんえん)(魏略) に書かれている伊都国の長官「 爾支(ニキ) 」のいた処が、伊都国の都(=熟田津 ⇒ 新北)である。

伊都國へ(東南陸行五百里)

「古遠賀湾図」

 新北津跡

「魏使のルート(陸行)」

 東南陸行五百里、伊都国に到る。(中略) 世、王有るも皆女王国に統属す。 郡使往来するに常に駐まる所なり。 (「魏志倭人伝」部分)※ 伊都国の津

 冬十月の已亥の朔辛丑に、和珥津より発ちたまふ。 (神功皇后紀)

 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな (萬葉集八番)

*.伊都國の津 = 倭珥津 = 熟田津(この三つの表記は、全て同じ場所である)

 『万葉集 八番歌』は、「熟田津で船乗りをしようと満月の出を待っていると満月も出てきて、大潮の具合も丁度よくなった。 さあ今漕ぎだそう」と詠われた歌で、これは、神功天皇が何者かを倒すために満月の夜に出航する時の歌だという解釈をした。
 通説では、熟田津は愛媛県松山市となっている。
 しかし、松山市には「にぎた」という地名が残っていない。たがら、場所が違うと判断して探した結果が、鞍手町新北であった。
 この辺りが、古代海であった時に新北のところに津があった。

万葉集 八
後岡本宮御宇天皇代
 天豊財重日足姫天皇、後即位後岡本宮
 熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜
 熟田津(にぎたつ)に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
 右は、山上憶良大夫の類聚歌林を檢ふるに曰く、「飛鳥岡本宮に宇御めたまひし天皇の元年己丑の九年丁酉の十二月己巳の朔の壬午、天皇と大后と、伊予の湯宮に幸したまひき。後岡本宮に宇馭めたまひし天皇の七年辛酉の春正月の丁酉の朔の壬寅、御船西に征き、始めて海路に就き、庚戌、御船、伊予の熟田津の石湯の行宮の泊りき。天皇、昔日より猶し存する物を御覧たまひ、当時忽ちに感愛の情を起こし、所以に因りて歌詠を製りて哀傷を為したまひき」といふ。即ちこの歌は天皇の御製なり。但し、額田王の歌は別に四首有り。

*.伊都国の津:熟田津

 

日本書紀 神功紀
(仲哀天皇)九年春二月、足仲彥天皇崩於筑紫橿日宮
 (中略)
 冬十月己亥朔辛丑、從和珥津發之。
(仲哀天皇)九年の春二月(きさらぎ)に、(たらし)(なかつ)(ひこ)天皇、筑紫の橿日宮(かしひのみや)に崩りましぬ。
 (中略)
 冬十月(かむなづき)己亥(つちのとい)の朔辛丑(かのとうし)に、和珥(わにの)()より発ちたまふ。

*.伊都国の津:和珥津

 

新北本司 熱田社古宮 ・・・ 海岸線跡(汀線跡)

「写真」

新北津跡

「写真」

 

 2016年3月講演『初代神武天皇は田川で即位した』で下記の内容に修正されています。

 肥前松浦は、神功皇后に滅ぼされた勝門姫の一族が、西に移動した後の松浦であった。田中和典さんの再発見と新発見です。田中さんの実家の糸島の宮地岳神社の祭神が勝門姫ということが判明したのです。

 仲哀天皇記は魏志倭人伝のマツロ国が最初から宗像の地である事を証明していました。肥前松浦をマツロ国に比定した説はすべて間違いとの結果が出ました。

 勝門姫は宗像の「 釣川 」のほとりで殺されたようです。私の説も肥前松浦ではなく、筑紫松浦の事件と修正します。

 福永晋三先生のタイトル『魏志倭人伝と記紀の史実-「伊都能知和岐知和岐弖」考』の資料「 魏志倭人伝と記紀の史実 」の8~10ページに「伊都(イツ)」の記述があります。

 万葉仮名伊都」は、「イト」とは読まない。 「 イツ 」と読む。『古事記』では、「伊都二字は(もち)いよ」などとの割注がついている。すなわち、わざわざ「イツ」と読めとある。

 また、『日本書紀 垂仁天皇二年』でも「」は、「 」と読んでいる。「都怒我阿羅斯等(ぬがあらしと)伊都都比古(いつつひこ)」とある。香春町には、都怒我阿羅斯等を祀る 現人神社 がある。

 宮若市  千石挟 (千石挟から鞍手町にかけてが、「伊予村」)のページへ

 『日本書紀 斉明紀 七年』の三月の「磐瀬行宮に居ます。」、八月の「還りて磐瀬宮に至る」は、中間市の 岩瀬 のページへ

 当時は海に面した土地であろう地図(Flood Mapsの海面上昇:7m)と古遠賀湾(古代の遠賀川流域の推定図)は、  こちら 

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