「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 内野老松神社 = 素戔鳥尊の須賀宮

※  香春の神と天皇
(令和6年1月6日(土) 香春町郷土史会例会)

 『古事記』にある素戔烏尊の「出雲八重垣」と詠われた須賀の宮跡の地も香春町鏡山の鏡乃池の奥に見つけ出した。その小山の場所は、下から数えると丁度8段になっている。

)以下の比定地を訂正

※  新説 日本書紀(やまとのふみ) 福永晋三と往く③(西日本新聞 筑豊版 平成30年2月17日(土))より

 宋史日本国伝が伊弉諾尊の次の王とする素戔鳥尊は

 八雲立つ 出雲八重垣妻 籠みに 八重垣作る その八重垣を

の歌を須賀宮で詠んだ。
 この宮は須賀神社が密集する点から、飯塚市内野の内野老松神社ではないかと思われる。
 その後、矢俣の大蛇一族を退治し、 筑豊に出雲王権を建てたとすれば、八雲とは筑豊で行われていたであろうたたら製鉄の大量の煙をさしたものかもしれない。
 内野老松神社近くの国道200号を北に約6キロ進んだ所には「出雲」という交差点もある。

※  古代史フォーラム 古代田川に天皇がいた2 平成30年3月21日(水) 於 福岡県立大学講堂より

■  素戔烏尊と草薙剣

 故、是を以ちて其の速須佐之男の命、宮を造作(つく)るべき地を出雲の國に求めき。爾くして須賀の地に到り坐して、「吾、此の地に來て、我が御心、すがすがし」と詔りて、其の地に宮を作り坐しき。故、其の地は今に云う須賀なり。()大神、初めて須賀の宮を作りし時、其の地より雲立ち(のぼ)りき。爾くして御歌を()みき。
 其の歌に曰く、
 八雲立つ 出雲八重垣妻 籠みに 八重垣作る その八重垣を (古事記)

 須賀の宮=内野老松神社

「写真」

 須賀神社

「写真」

■  須賀の宮・出雲・タタラ

 須賀神社が密集する所が旧筑穂町。内野老松神社が「須賀の宮」と推定される。その北の阿恵にタタラ遺跡があり、さらに北6㌔に「出雲」交差点がある。タタラ製鉄の跡は確認されていない。

「地図」

17 出雲貴船神社古墳
 (古墳時代)

26 出雲百穴(古墳時代)

47 タタラ遺跡(古代・中世)

48 ヒイ田遺跡(弥生時代)

■  八俣遠呂智退治の真相

 其の八俣遠呂智(まこと)(こと)の如く來て、乃ち船毎に己が頭を垂れ入れ其の酒を飮みき。是に飮み醉ひ留り伏して寢ねき。爾くして速須佐之男の命、其の御佩せる十拳の劔を拔きて其の蛇を切り散ししかば、肥の河血に變じて流れき。故、其の中の尾を切りし時、御刀の刄毀(こぼ)れき。爾くして怪しと思ひて御刀の前(さき)を以ちて刺し割りて見れば、都牟刈(つむがり)の大刀在り。故、此の大刀を取りて、異しき物と思ひて、天照大御神に白し上げき。是は草那藝(くさなぎ)の劒なり。 (古事記)

八俣 yaata
  ↓
八幡 yaata

 『草薙劒』、此を倶娑那伎能留伎(くさなぎのるぎ)と云ふ。一書に云ふ。本の名は天叢雲劒(あめのむらくものつるぎ)(けだ)(おろ)()()る上に、常に雲氣(うんき)有り。(かれ)以ちて名づくるか。日本武皇子(やまとたけるのみこ)に至りて、名を改め草薙劒と曰ふ
 (日本書紀 神代第八段)

天村雲尊 = 八俣の大蛇一族、即ち八幡神 の長か

素戔烏尊は、最初の八幡神 を退治したか!

■  弥生中期 鉄剣の時代

 八俣の大蛇は八剱を所有していたから人間の一族であろう。長江の下流域で人頭蛇身の女媧(じょか)という神が祭られていた。この神を祭る一族ではなかったか。

図「女媧」
「鉄刀」

■  出雲王朝の成立

 出雲王朝は、須賀の宮を根拠地にした素戔烏尊が古遠賀湾沿岸にいた八幡神を北伐 し、建てた王朝ではないか。また、八俣の大蛇一族から奪った剣は八剱のはず、八剣神社が筑豊に濃密に分布し、日本武尊の草薙の劒とも深く関わる。

   八剱神社(鞍手町中山) は、日本武尊、宮簀姫、素戔男尊の三祭神を祀る。

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