「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 倭 (やまと)王朝の歴史とその遺構 (平成29年3月19日、於 福岡県立大学)講演より
■ 二中歴(九州年号): 継体天皇の時から年号が始まる
二中歴の年号「善記」は、継体天皇から始まり、継体天皇の宮の磐余玉穂宮(福智町金田
稲荷神社 )に
確認したので、これは、豊国年号とした。
次に重要なのが、欽明天皇一九年(五五八年)に僅か一年だが、年号が「兄弟」という変わった年号がある。
これが中国史書の『隋書 俀國傳』に出てくる兄弟統治(兄弟王朝)の始まりの年ではないか。
欽明天皇の磯城島(しきしま)金刺宮があった敷島という地名も福智町にある。
■ 「隋書 俀國 開皇二〇年」の記事に兄弟統治(兄弟王朝)が記されている
開皇二十年、俀王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。上令所司
訪其風俗。使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便
停理務、云委我弟。 高祖曰、「此太無義理。」於是訓令改之。
開皇二十年(六〇〇年)、俀王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を王宮に詣でさせる。
上(天子)は所司に、そこの風俗を尋ねさせた。
使者が言うには、倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす、天が未だ明けない時、出でて聴政し、
結跏趺坐(けっかふざ=座禅に於ける坐相)し、日が昇れば、すなわち政務を停め、我が弟に委ねるという。
高祖が曰く「これはとても道理ではない」。ここに於いて訓令でこれを改めさせる。
『 吉山旧記 』に「天に有りては、月・・・」とあるように「天が未だ明けない時」は、月が出ている。昼間は、
天には日が出ている。
という事は、筑紫側が月神で、豊国側が日神という事になる。
継体天皇から始まるので、豊国年号とした。その継体天皇の時には、豊国が兄の国で、筑紫国が弟の国で始まった
のであろうと考えている。
『隋書 俀國傳』では、阿毎多利思比孤が、兄と記されている。筑紫の側が、いつ兄に変わったのであろうか?
後の「日出ずる處の天子」の阿毎多利思比孤が、随に遣いを出したのが西暦六〇〇年(開皇二〇年)であり、
その翌年の六〇一年の豊国の推古天皇九年にまた、変わった年号の「願転」というのがある。
どのような意味だろうか?兄の国と弟の国がひっくり返る事を願うという意味ではないかと考えた。
阿毎多利思比孤が、継体天皇から続いていた兄の国(豊国)に代わって、自分(筑紫側)が兄の国になったので
ないか。
その後の六一八年に「倭京」という年号がある。大いなる都を建てた。「願転」の年号からひっくり返った
と考えて筑紫年号とした。
今まで九州王朝論で九州年号と言われた年号は、豊国年号から筑紫年号に代わっていると初めて述べている。
※ 聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた
(平成29年6月3日 みやこ町歴史民俗博物館。4 日 嘉麻市NICO)の講演より
『襲國偽僭考』の逸年号と豊国年号(佃収説を編集)を追加更新(「 天皇家と蘇我氏の歴史⑤ 崇峻天皇 」の
ページを参照下さい。)
法隆寺金堂に安置されている釈迦三尊像の光背銘に「法興元三十一年歳次辛巳」という年号が
刻まれている。
この法興という年号は『二中歴』に記された古代逸年号群の中にない。継体以降の豊国年号と違う系列の
古代逸年号である。
その法興元年が西暦五九一年である時、二萬餘の豊国軍が筑紫に派遣された翌年に筑紫国に年号が発布された
ことになる。発布の主は誰か。
『隋書』俀國傳 に云う「開皇二十年(六〇〇年)、俀王、姓は阿毎、字は多利思比孤、
号は阿輩雞彌」すなわち、阿毎多利思比孤(天足彦)その人であろう。
阿輩雞彌は天皇(あめきみ)の中国音(唐宋音読み)か(毎は米と同じでマイがベイに変化した)。
後に自ら日出處天子と称した。
■ 筑紫倭国と豊国倭国の境界線と倭京について
宮若市のJR九州(国鉄)の宮田線の駅にあった筑前宮田駅の駅名が示すように筑紫国は、遠賀湾まで
含まれる。
倭国東朝の豊国の領域は随分と狭い。この時の豊国は、小さい。実際に『日本書紀 孝徳紀』には、ほどんど
行橋市くらいの大きさだと書かれている。
筑紫国側(倭国本朝)が圧倒的に大きい。(上記の逸年号の追加更新とあわせて倭国地図の境界線も修正)
倭国東朝の都は、赤村の 光明八幡神社 (元々の我鹿八幡神社の場所)にあった舒明天皇の飛鳥岡本宮である。
また、その北側に滑(なめら)という地名があり、ここには滑古墳群がある。その三基ある古墳の一基が、本当の
舒明天皇の滑谷岡陵であろう。
兄の国に代わった倭国本朝(筑紫倭国)の事が、『 隋書 俀國 』に以下の内容についても記されている。
・王の妻は雞彌と号し、後宮には女が六~七百人いる。
・太子を わかんどほり と呼ぶ。城郭はない。
・内官には十二等級あり、
ここに書かれている冠位十二階の制度は、聖徳太子の業績になっているが、倭国本朝の天子である阿毎多利思
比孤の業績である。
・大業三年(六〇七年)「日出ずる處の天子、・・・」
これも聖徳太子が遣いを出した事になっているが、ここに海西の菩薩天子とあり、仏教を大事にした人である。
次に『 宋史 日本国 』に書かれている用明天皇の子に、聖徳太子が出てくるが、「この国の随の開皇中に
當たり、遣いを遣わし海に浮かび、中国に至りて法華経を求む」とあるのは、元の脱脱のいう学者が入れた注で
ある。王年代紀の原文では無い。
今の教科書は、聖徳太子を元の厩戸皇子に書き換えようとしているが、豊国にも聖徳太子は、居なかった。
この『宋史 日本国』にハッキリ書いているように平安時代の東大寺に伝わっている書物には聖徳太子と書いて
いる。実はこれは、改ざんである。
「随の開皇中」の人物であるという事は、『隋書 俀國』に書かれている「日出ずる處の天子、・・・」で
ある阿毎多利思比孤と言っている。
しかし、平安時代には、既に阿毎多利思比孤(日出ずる處の天子)は、聖徳太子に貶められている。推古天皇の
摂政、豊国側の太子に置き換えられている。
「日出ずる處の天子」である阿毎多利思比孤は、倭国本朝=太宰府の側の天子である。豊国の天皇と筑紫の側の
天皇は違う。
筑紫の側の天皇を聖徳太子に貶めるから筑紫が見えなくなる。言い換えると『古事記』、『日本書紀』は、豊国
中心に書かれている。