「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


[日本書紀 神武紀 歌謡八・九・十・十一]

以下、『越境としての古代[6]』の「神武は、筑豊に東征した」より

 佐賀平野は、渡来型弥生人の人骨分布図の西の端に当たり、同時に立岩式石包丁流通の西端部に当たる。ここに
現段階では日本最大の環濠集落、「吉野ヶ里遺跡」が現れた。環濠集落とは「戦闘に備えたクニ」の跡と考えてよい。
が、考古学は吉野ヶ里遺跡に戦闘の跡を見ようとしない。
 他方、古事記・日本書紀の神武天皇の記録の中には、天神降臨後の戦闘と思われる記載が歌謡を中心に残されている。
神武記には、神武を指して「神倭伊波礼毘古(かむやまといはれひこ)の命」と「天神御子(あまつかみのみこ)」の二つの呼称が
ある。
 このうちの「天神御子」が主語となる記録は、そのまま筆者の言う「天神降臨」事件の記録のようである。今日の
奈良県下の事件ではなさそうだ。
 神武記を始め、記紀は時空間の異なる記事を組み合わせてあるらしい。その視点で、日本書紀の神武紀を分析した
ところ、次の一連の歌謡が、実は「吉野ヶ里」の攻防を詠ったものと判明した。ひとまず、歌を読んでいただこう。

※ 神武即位前紀戊午年冬十月、八十梟征伐戦の歌謡の新解釈

 神風の 伊勢の海の 大石にや い這ひ廻(もとほ)る 細螺(しただみ)の 吾子よ 細螺の 吾子よ 
細螺の い這ひ廻り 撃ちてし止まむ 撃ちてし止まむ

【口訳】
 神風の伊勢の海の大きな石のまわりを、這いまわっているシタダミのような吾が子よ。シタダミのような兵士よ。
シタダミのように這いまわって、敵を撃ち滅ぼしてしまおう。敵を撃ち滅ぼしてしまおう。

【解説】
 伊勢の海は、福岡県糸島半島付近の海。かつてここに上陸した天孫族の一部族が、この地方で歌った歌謡のようだ。
吾子は文字通り、海辺に遊ぶ吾が子を指した。
 その後領土拡張を続けて、佐賀県神崎の吉野ヶ里(次の歌謡の「オサカの大室屋」)の決戦に臨んだとき、兵士に
呼びかける歌にアレンジされたようだ。
 替え歌のほうでは、城柵の上から矢を射掛けられ、濠に次々味方の兵の死体が重なってゆく。それでもなお、兵士は
シタダミのように濠を這って敵陣に迫るのである。生々しい戦闘歌だ。
 (この解釈については、福田健氏からヒントをいただいた。)

 お佐嘉の 大室屋に 人多に 入り居りとも 人多に 来入り居りとも みつみつし 
来目の子らが 頭椎い 石椎いもち 撃ちてし止まむ

【口訳】
 お佐賀の大室屋に、人が多勢入っていようとも、人が多勢来て入っていようとも、勢いの強い来目の者たちが、
頭椎・石椎でもって撃ち殺してしまおう。

【解説】
 佐賀は古くはサカと呼んだ。通常、奈良県の忍坂がオサカに当てられてきたが、弥生時代の「大室屋」が
吉野ヶ里遺跡を措いてないことは、その復元からも推測される。
 「お佐賀の大室屋」の推測の原点は、吉野ケ里遺跡の前期環濠集落の東側に、当時の東方すなわち筑紫方面から
攻めてくる敵を想定して設けられたと思われる「逆茂木」遺構のあることだった。
 弥生時代後期の広がった同環濠集落にはまったく意味をなさないこの遺構が、この歌の再発見につながった。
 

 今はよ 今はよ ああしやを 今だにも 吾子よ 今だにも 吾子よ

【口訳】
 今が最後だと、今が最後だよ。ああ奴らを(倒すのは)。今を置いてないよ、吾が子よ。今を置いてないよ、
兵士等よ。

解説】
 通例では、敵を倒した後、この歌が歌われ、みんなで笑ったとある。だが、歌を普通に読むなら、長期戦のあと、
終に訪れた総攻撃の合図の歌ととらえるのが順当のように思われる。
 歌の元々は、鵜飼の鵜を捕らえるタイミングを子に教える歌とする解釈(古田武彦氏)があるが、それを使って
総攻撃の合図としたとする筆者の考えとは矛盾しないだろう。
 この歌のみ、通例の解釈(「記紀歌謡全注釈」角川書店)をあげておこう。
 「今はもう、(すっかり敵をやっつけたぞ)。わーい馬鹿者め。これでもか、ねえおまえたち。」
   

 (お佐賀なる) 愛瀰詩を一人(ひだり) 百な人 人は言へども 抵抗(たむかい)もせず

【口訳】
 お佐賀にいるエミシを一騎当千だと、人は言うけれども、(われわれには)手向かいもできなかったぞ。

【解説】
 初句「お佐賀なる」は、我が国最古の歌謡書『歌経標式』(七七二年)にある形から採った。エミシは
通例「蝦夷」と蔑称が使われるが、ここだけ、原文は「愛瀰詩」とイメージの良い字が用いられている。
エミシの自称と思われる。口訳にあるとおり、の歌こそが、激戦に勝った側の勝どきの歌であろう。

 『日本書紀』の原文によれば、約半年にわたる攻防戦であった。これらの歌謡が、景行紀にあるべき説話で
あることは拙論「於佐伽那流(おさかなる) 愛瀰詩(えみし)」(『九州王朝の理論』明石書店所収)で論じた。
 今は結果のみ挙げよう。吉野ヶ里陥落は、景行十三年(AD八三年)の出来事と推測された。AD一〇七年、
倭国王帥升らが、後漢の安帝に生口一六〇人を献じたとある。
 「生口(奴隷)」とは、この前後の戦いのときの捕虜、於佐伽那流 愛瀰詩の人々らを言うのであろうか。