「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
『神功皇后紀と魏使倭人伝』2017年1月29日、大任町講演より
※ 兄弟統治:一日の内に王権を譲り合う。「高良宮を月神と云ふ。」とあるように夜が明けない内(月が
出ている間)は兄が、陽が昇れば弟が統治する。夜が開けるまでは、筑紫の側の兄が統治し、陽が昇る
と豊国の弟が政務を司る。
神功皇后は豊国の側であり、紀武内宿祢は筑紫の側で二つの王朝が並び立った。
※ 原文は、「利歌彌多弗利」となっているが、訂正して「和歌彌多弗利」が正しいと思われる。太子の名前は、
「わかみたふり」。
太子を「わかんどほり」と呼ぶ。「わかんどほり」という言葉が日本語にある。中国で写された言葉が、当時の
発音で「わかみたふり」。それが、日本国内で訛って「わかんどほり」となった。
*.「わかんどおり(わかんどほり)腹」は、皇族の女子からの出生であること。
「内官有十二等」は、聖徳太子の冠位十二階の制度のことである。
※ 天子 とあり、聖徳太子では無い。天子とあるので、天皇であり位が違う。
『宋史 日本国』(王年代紀) の聖徳太子の記事に「開皇年間に遣いを使す。」とあり、平安時代に早くも
「日出處天子」である阿毎多利思比孤を隠す為に聖徳太子に書き替えた。
今時の先生達は、聖徳太子は存在しなかったというが違う。書き替えによって消し去ったのである。「日出處
天子」とした聖徳太子(阿毎多利思比孤)は、残念ながら推古天皇の摂政では無い。推古天皇は、明らかに豊国
側の天皇である。
「日出處天子」の阿毎多利思比孤は、太宰府を拠点にした筑紫の天子(天皇)である。兄弟王朝の流れで倭国
本朝と倭国東朝があった。その本朝側の天皇が、多利思比孤である。
東朝側が推古天皇であり、推古天皇の時に聖徳太子が随に遣いを使すという嘘を書いている。「後宮有女六七
百人」と記されている。聖徳太子にそんなに妻がいましたか? いないでしょう! 違います。