「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


[ 隋書 俀國傳 ]

『神功皇后紀と魏使倭人伝』2017年1月29日、大任町講演より

 俀國、在百濟新羅東南、水陸三千里、
於大海之中依山島而居
。魏時、譯通中
國。三十餘國、皆自稱王。夷人不知里
數、但計以日。其國境東西五月行、南
北三月行、各至於海。其地勢東高西下。
都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
古云、去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千
里、在會稽之東、與儋耳相近

 漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。安
帝時、又遣使朝貢、謂之俀奴國。桓靈
之間、其國大亂、遞相攻伐、歷年無主。
有女子名卑彌呼、能以鬼道惑衆、於是
國人共立爲王。有男弟、佐卑彌理國。
其王有侍婢千人、罕有見其面者、唯有
男子二人給王飲食、通傳言語。其王有
宮室樓觀、城柵皆持兵守衞、爲法甚嚴。
自魏至于齊梁代、與中國相通。
隋書 俀國

 

 開皇二十年(六〇〇年)、俀王、姓は阿
毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使
を王宮に詣でさせる。上(天子)は所司に、
そこの風俗を尋ねさせた。
 使者が言うには、倭王は天を以て兄とな
し、日を以て弟となす、天が未だ明けない
時、出でて聴政し、結跏趺坐(けっかふざ
=座禅に於ける坐相)し、日が昇れば、す
なわち政務を停め、我が弟に委ねるという。

 高祖が曰く「これはとても道理ではない
」。ここに於いて訓令でこれを改めさせる。
  開皇二十年 、俀王姓阿毎、字多
利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。
上令所司訪其風俗。使者言倭王以天
為兄、以日為弟、天未明時出聽政、
跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。

高祖曰、「此太無義理。」於是訓令
改之。
隋書 俀國

 兄弟統治:一日の内に王権を譲り合う。「高良宮を月神と云ふ。」とあるように夜が明けない内(月が
 出ている間)は兄が、陽が昇れば弟が統治する。夜が開けるまでは、筑紫の側の兄が統治し、陽が昇る
 と豊国の弟が政務を司る。
  神功皇后は豊国の側であり、紀武内宿祢は筑紫の側で二つの王朝が並び立った。

 

 王の妻は雞彌と号し、後宮には女
が六~七百人いる。太子をわかんど
ほり
と呼ぶ。城郭はない。内官には
十二等級あり、初めを大德といい、
次に小德、大仁、小仁、大義、小義、
大禮、小禮、大智、小智、大信、小
信(と続く)、官員には定員がない。
 王妻號雞彌、後宮有女六七百人
名太子為 和歌彌多弗利。無城郭。
内官有十二等、一曰大德、次小德、
次大仁、次小仁、次大義、次小義、
次大禮、次小禮、次大智、次小智、
次大信、次小信、員無定數。有軍
尼一百二十人、猶中國牧宰。八十
戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊
尼翼屬一軍尼。
隋書 俀國

 原文は、「歌彌多弗利」となっているが、訂正して「歌彌多弗利」が正しいと思われる。太子の名前は、
 「わかみたふり」。
  太子を「わかんどほり」と呼ぶ。「わかんどほり」という言葉が日本語にある。中国で写された言葉が、当時の
 発音で「わかみたふり」。それが、日本国内で訛って「わかんどほり」となった。

*.「わかんどおり(わかんどほり)腹」は、皇族の女子からの出生であること。
  「内官有十二等」は、聖徳太子の冠位十二階の制度のことである。

 

 大業三年(六〇七年)、その王の
多利思比孤が遣使を以て朝貢。使者
が曰く「海西の菩薩天子、重ねて仏
法を興すと聞き、故に遣わして朝拝
させ、兼ねて沙門数十人を仏法の修
学に来させた」。その国書に曰く
「日出ずる處の天子、書を日沒する
處の天子に致す。恙なきや」云々。
帝はこれを見て悦ばず。鴻臚卿が曰
く「蛮夷の書に無礼あり。再び聞く
ことなかれ」と。
 大業三年、其王多利思比孤遣使
朝貢。使者曰、「聞海西菩薩天子
重興佛法、故遣朝拜、兼沙門數十
人來學佛法。」其國書曰「日出處
天子
致書日沒處天子無恙」云云。
帝覽之不悅、謂鴻臚卿曰、「蠻夷
書有無禮者、勿復以聞。」
隋書 俀國

 天子 とあり、聖徳太子では無い。天子とあるので、天皇であり位が違う。
   『宋史 日本国』(王年代紀) の聖徳太子の記事に「開皇年間に遣いを使す。」とあり、平安時代に早くも
 「日出處天子」である阿毎多利思比孤を隠す為に聖徳太子に書き替えた。
  今時の先生達は、聖徳太子は存在しなかったというが違う。書き替えによって消し去ったのである。「日出處
 天子」とした聖徳太子(阿毎多利思比孤)は、残念ながら推古天皇の摂政では無い。推古天皇は、明らかに豊国
 側の天皇である。
  「日出處天子」の阿毎多利思比孤は、太宰府を拠点にした筑紫の天子(天皇)である。兄弟王朝の流れで倭国
 本朝と倭国東朝があった。その本朝側の天皇が、多利思比孤である。
  東朝側が推古天皇であり、推古天皇の時に聖徳太子が随に遣いを使すという嘘を書いている。「後宮有女六七
 百人」と記されている。聖徳太子にそんなに妻がいましたか? いないでしょう! 違います。