「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


[倭国大乱 = 豊国 対 火国(『記紀』の欠史八代 ~ 垂仁天皇までの時代)]

 弥生時代後期の2世紀後半に倭国で起こったとされる争乱。中国の複数の史書に記述が見られる。

■ 『三国志』魏書 卷30 東夷伝 倭人(魏志倭人伝)

  其の国もまた元々男子を王として70 - 80年を経ていた。倭国は乱れ、何年も攻め合った。そこで、一人の女子を
 共に王に立てた。名は 卑弥呼 という。

  其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歴年

 他に、

■ 『後漢書』卷85 東夷列傳第75

  桓帝・霊帝の治世の間(146年 - 189年)、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、何年も主がいなかった。
 卑弥呼という名の一人の女子が有り、・・・

■ 『梁書』卷54 列傳第48 諸夷傳 東夷条 倭

  後漢の霊帝の光和年間(178年 - 184年)倭国は乱れ、何年も攻め合った。そこで、卑弥呼という一人の女子を
 共に王に立てた。等がある。

※ 「倭国大乱」 ⇒ 「豊国 対 火国」

① 「元々男子を王として70 - 80年を経ていた。倭国は乱れ、何年も攻め合った。」とされる原因は、神武天皇の
 婚姻である。
  出身地の日向国の吾田邑の吾平津姫(妃)との間に生まれた手研耳命と香春の地(橿原の地)で正妃として
 迎えた媛蹈鞴五十鈴媛命との間に生まれた神渟名川耳尊(のちの綏靖天皇)との争いから始まった。

② この霊帝の光和年間(178年 - 184年)の6年間が、『日本書紀 崇神紀』の五年から十一年の記述にあたる
 としている。

 

※ 古事記を読む-神武から景行まで(平成28年9月25日、於 添田町町民会館)の講演より

『古事記』 神武記より、手研耳命の変(これが、倭国大乱の始まり)

當藝志美美命の変
 (倭国大乱の始まり)
 故、天皇の崩りし後に、其の庶兄
當藝志美美(たぎしみみ)の命、其の嫡后
伊須氣余理比賣を娶りし時に、將に
其の三はしらの弟を殺さんとして謀
りし間、其の御祖伊須氣余理比賣患
え苦しみて、歌を以ちて其の御子等
に知らしめて、歌ひて曰く、
 狭井河よ 雲立ち渡り 畝尾山
 (宇泥備夜麻) 木の葉さやぎぬ
 風吹かむとす
 また歌ひて曰く、
 畝尾山 昼は雲とゐ
 夕されば 風吹かむとぞ
 木の葉さやげる

*.手研耳命は、神武天皇の後、3年間大王になっていた。神沼河耳命(後の綏靖天皇)が、手研耳命を
 射殺す。
  実際に謀反を起こしたのは、神沼河耳命側である。大乱という言葉は、中国では、帝王(皇帝)が家来に
 殺された場合に使われる。
  倭国で大王(天皇)が暗殺されたので、「倭国大乱」になり、ここから大乱が始まった。

*.ここで詠われている歌から神武天皇の時代には、「狭井河」は、「畝尾山」の近くを流れていた。
  英彦山方面より犀川(今川)は、北に向かって流れてきて、赤村の油須原の所で直角に東に向きを変えて
 行橋市に流れて行く。香春岳一ノ岳が、畝尾山であるならば、犀川まで少し距離がある。
  自然の河川が、直角に流れを変える事はまずない。この直角に流れが変わった場所で大規模な土砂崩れが
 発生して、本来は、現在の御禊川の流れだった(河川争奪が起こった)。

  神武天皇の時代には犀川(現御禊川)は、大きな河で、香春岳一ノ岳の南側を堂々と流れていた。河川争奪が
 起こり、昨日は、河の淵だった場所が今日は浅瀬に変わったと詠われた歌が、『古今和歌集』九三三番

  世の中は 何か常なる 飛鳥川 昨日の淵ぞ 今日は瀬になる

 であり、犀川こそが、この 飛鳥川 である。飛鳥川の土地が、飛鳥であり現在の赤村が、飛鳥という事になる。

  綏靖天皇から開化天皇までを『記紀』においては「欠史八代」と言われる。この八人の天皇は、天皇と
 言われるが、『日本書紀』の版本の「前田家本」の中では、天皇の名前がついていない。
  「倭国大乱」の時代で、上記の『後漢書』の中に「何年も主がいなかった」とあるように天皇位について
 いない。諡に天皇がついていない。大乱の為に、正当に即位した人がいなかった。

 

『古事記』 綏靖天皇 ~ 孝昭天皇

綏靖天皇
 神沼河耳(かむぬなかわみみ)の命、葛城
の高岡の宮に坐しまして天の下治し
めしき。
(杉守神社 八幡西区上香月四‐二‐一)
安寧天皇
 師木津日子玉手見(しきつひこたまてみ)
の命、片鹽(かたしお)の浮穴(うきあな)
の宮に坐しまして天の下治しめしき。
(若八満宮 飯塚市片島三丁目)
懿徳天皇
 大倭日子鉏友(おおやまとひこすきとも)
命、輕(かる)の境の岡の宮に坐しまし
て天の下治しめしき。
孝昭天皇
 御眞津日子訶惠志泥(みまつひこかえしね)
の命、葛城の掖上(わきがみ)の宮に坐し
まして天の下治しめしき。

*.綏靖天皇の「葛城の高岡の宮」= 杉守神社 
  安寧天皇の「片鹽の浮穴の宮」= 若八幡宮 

 

『古事記』 孝安天皇 ~ 開化天皇

孝安天皇
 大倭帶日子國押人(おおやまとたらしひこく
におしひこ)
の命、葛城の室の秋津嶋の宮
に坐しまして天の下治しめしき。
孝霊天皇
 大倭根子日子賦斗邇(おおやまとねこひこ
ふとに)
の命、黑田の廬戸(いおと)の宮に
坐しまして天の下治しめしき。
(黒田神社 みやこ町勝山黒田)
孝元天皇
 大倭根子日子國玖琉(おおやまとねこひこ
くにくる)
の命、輕(かる)の堺原(さかいは
ら)
の宮の宮に坐しまして天の下治し
めしき。
開化天皇
 若倭根子日子大毘毘(わかやまとねこひこ
おおびび)
の命、春日の伊邪河(いざかわ)
の宮に坐しまして天の下治しめしき。

*.孝霊天皇の「黑田の廬戸の宮」= 黒田神社 

 

『古事記』 崇神記より

崇神天皇
 御眞木入日子印惠(みまきいりひこい
にえ)
の命、師木の水垣の宮に坐し
まして天の下治しめしき。
「赤土以ちて床の前に散紡麻以ち
て針に貫き、其の衣の襴に刺せ。」
故、教えの如くして旦時に見れば、
針に著けたる麻は戸の鉤穴より控
き通りて出で、唯、遺れる麻は三
勾のみなりき。爾くして即ち鉤穴
より出でし狀を知りて、糸の從に
尋ね行けば美和山に至りて神の社
に留りき。故、其の神の子と知り
ぬ。故、其の麻の三勾遺りしに因
り其の地を名づけて美和と謂うな
り。
初國知らしめしし御眞木の天皇
 謂うなり。
(崇神記)

*.崇神天皇記の「三輪山伝説」の美和山= 香春岳 である。
  奈良県の三輪山/大神神社の三輪山は一輪の山であるが、大神神社(三輪明神)の鳥居は、三輪鳥居と
 呼ばれる一つの鳥居の脇に小さな鳥居を組み合わせたものになっている。
  一つの山に3柱の神様がいらっしゃる。一つの山に3柱の神様をまとめたから3つの鳥居が建っている。

 福永晋三先生のタイトル「邪馬臺国の位置と年表」の資料 「 邪馬臺国の位置と年表改訂版 」の13ページに
 「ハツクニシラススメラミコトの怪」に詳細ががあります。

 

『古事記』 垂仁記より

垂仁天皇
 伊久米伊理毘古伊佐知(いくめいり
びこいさち)
の命、師木の玉垣の宮に
坐しまして天の下治しめしき。此
の時に、沙本毘賣の命、其の兄に
忍うることを得ず、後つ門より逃
げ出でて、其の稻城に納りき。此
の時に其の后、妊身めり。是に天
皇、其の后の懐妊めると、愛しみ
重みして三年に至れるとに忍えず
。故、其の軍を廻らして攻迫むる
こと急かならず。如此逗留れる間
に其の妊める御子を既に産みき。
故、其の御子を出だして稻城の外
に置き、天皇に白さしめしく、
「若し此の御子と思おし看さば、
治め賜うべし」。
(垂仁記)

*.「沙本毘古王の反逆」が起きている。
  當藝志美美の命が殺されて以降、綏靖天皇からこの垂仁天皇の時代までが、『魏志倭人伝』に云う
 ところの倭国大乱に当たると思われる。