「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 教科書から削られた「神武~神功」

(やまと)王朝の歴史とその遺構(平成29年3月19日、於 福岡県立大学)講演より

 教科書で云われる普通の日本史の内容では、「神武~神功」については削られている。ここでは、山川出版から
出ている『日本史B』のそのままの写しを載せている。

 

<邪馬台国連合>

教科書から削られた「神武~神功」

《邪馬台国連合》

 中国大陸では220年に後漢が滅び,かわって魏(220~365)・呉(222~
280)・蜀(221~263)が並び立つ三国時代を迎えた。その三国時代の歴史
書『三国志』の「魏志」倭人伝によると,倭国では2世紀の終わり頃に大きな
争乱がおこり,なかなかおさまらなかった。
 そこで諸国は共同して邪馬台国(やまたい,やまと)の女王卑弥呼を立て
たところ,ようやく争乱はおさまり,ここに邪馬台国を中心とする29国ばか
りの小国の連合が生まれた。卑弥呼は239年,魏の皇帝に使いを送り,「親
魏倭王」の称号と金印,さらに多数の銅鏡などをおくられた。卑弥呼は巫女
として神の意志を聞くことにたけていたらしく,その呪術的権威を背景に
政治をおこなったという。

 

<前期・中期の古墳>

教科書から削られた「神武~神功」

《前期・中期の古墳》

 三角縁神獣鏡(邪馬台国が交渉した中国の三国時代の魏の鏡とする説と,
中国から渡来した工人が日本でつくったものとする説とがある。)をはじめ
とする多量の銅鏡や腕輪形石製品,鉄製の武器や農工具など呪術的・宗教的
色彩の強いものが多く,この時期の古墳の被葬者である各地の首長たちは司
祭者的な性格をもっていたことをうかがわせる。
 中期になって,副葬品の中に鉄製武器・武具の占める割合が高くなるのは,
馬具なども加わって被葬者の武人的性格が強まったことを示している。

 日本史の教科書でも「魏志倭人伝」、「邪馬台国」、「女王卑弥呼」という記述は必ず出てきます。邪馬台国
(やまたい、やまと)
とわざと仮名が振っているように邪馬台国近畿説の学者達に寄って書かれているので、近畿・
奈良県(大和)に後の大和王朝が興ったという事を言いたいが為に「邪馬台」を「やまと」と読ませている。
 これは、倭国豊国説における「 邪馬臺(やまと) 」とは違う考え方の「やまと」の読み方です。

 次に前期・中期の古墳という題の中に三角縁神獣鏡が出てくるが、先に邪馬台国が交渉した中国の三国時代の魏の
鏡とする説が書かれている。
 これは、三角縁神獣鏡を卑弥呼が魏からもらってきた鏡だという解説を最初に置いている。これもたぶん嘘であろう
と思われる。
 実際に鏡の考古学の先生方は、もはや三角縁神獣鏡が、卑弥呼が魏からもらってきた鏡だと考えてはいない。
 しかし、邪馬台国近畿説の学者にとってはいつまで経っても外せない項目のようである。

 

<前期・中期の古墳>

教科書から削られた「神武~神功」

《前期・中期の古墳》

 最大の規模をもつ古墳は,中期に造営された大阪府の大仙陵古墳(仁徳
天皇陵古墳)
で,前方後円形の墳丘の長さが486 mあり,2~3重の周濠を
めぐらしている。
 さらにそのまわりの従属的な小型の古墳である陪冢が営まれた区域をも
含めると,その墓域は80haにもおよぶ。
(その築造には,全盛時で1日当たり2000人が動員されたとして,延べ
 680万人の人員と,15年8ヵ月の期間が必要であったと計算されている。)
 第2位の規模をもつ大阪府の誉田御廟山古墳(応神天皇陵古墳)などと
ともに,5世紀のヤマト政権の大王の墓と考えられる。

 大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)のカッコ書きのところが面白いその築造には,全盛時で1日当たり2000人が動員
されたとして,延べ680万人の人員と,15年8ヵ月の期間が必要であったと計算されている。
 というのは、学者たちとたぶん大林組のでっち上げである。平地に土を盛ったという記録はどこにもありませんし、
実際に違います。自然の山を少し成型しただけです。このような計算は意味がないが、教科書にはこれを出す訳である。

 次に誉田御廟山古墳(応神天皇陵古墳)を出す。教科書はここにハッキリと第15代、応神天皇。第16代仁徳天皇が
書かれている。
 戦後史学の先生達は、津田左右吉の学説に習って第15代の応神天皇からが実在の天皇だといつもいつも述べる。

 

<東アジア諸国との交渉>

教科書から削られた「神武~神功」

《東アジア諸国との交渉》

 さらに,朝鮮半島南部をめぐる外交・軍事上の
立場を有利にするため,5世紀初めから約1世紀
近くのあいだ,『宋書』倭国伝に讃・珍・済・興
・武と記された倭の五王(『宋書』倭国伝に記されて
いる倭の五王のうち,とその子であるについては
『古事記』『日本書紀』(「記紀」という)にみられる允恭
とその子の安康雄略の各天皇にあてることにほとんど異
論はないが,には応神仁徳履中天皇をあてる諸説が
あり,についても仁徳反正天皇をあてる2説がある。)

があいついで中国の南朝に朝貢している。

 初代の神武天皇から神功皇后までは、架空であると戦後史学は70年行ってきた。
 私は、講演においてよく説明するのが、「私福永晋三は、実在です。私の母親は架空です。」というと大体皆さんが
お笑いになる。
 そのような事を教科書を書いている先生方は、平気でおっしゃる訳です。何処までが架空かで何処からが実在などと
キッパリと決められるわけは無い。

 しかし、この教科書の内容によって、「邪馬台国」も「大和王朝」もすべて近畿・奈良県(大和)に興ったとする
のが教科書の本筋である。

 その応神天皇や仁徳天皇に関わってもう一つ教科書に大きく書かれるのが、次の『宋書 倭国伝』である。 讃、珍、
濟、興、武という倭五王である。
 これは、戦後史学で大きく取り上げられて、讃、珍、濟、興、武が、『日本書紀』の応神、仁徳、履中、反正、允恭、
安康、雄略天皇のいずれかの天皇に当たるのだとしている。これが、通説の学者達の言い分である。

 これも全く当たりません。この『宋書 倭国伝』に書かれている 倭五王 は、違う王家の天皇であり、『日本書紀』も
また別の天皇家の記述(系譜)という事である。
 したがって、これは永遠に合わない訳です。しかし、教科書はいつまでも教鞭し続ける。
 この教科書に載せられた通説に私の「倭国豊国説」も大芝英雄さんの「豊前王朝論」も抗っている訳です。

 教科書に一切出てこないのが、 東鯷国 という国である。中国の文献にしか登場しない。銅矛文化圏が倭国であり、
銅鐸文化圏が東鯷国と思われる。
 中国の歴史書(出典)にあるように倭国は三韓の南(朝鮮半島の南)とあるので、銅矛文化圏の国という事になる。
東鯷国は銅鐸文化圏に当たる。
 それは、『翰苑』の中にある「魏略逸文」の文献にでてくるように三韓の東と書いている。つまり、朝鮮半島から
日本海に沿って東へ行くと能登半島にぶつかる。
 したがって、東鯷国というのは近畿地方の北部辺りにあった国と考えられる。

 それからよく話題になります後漢鏡ですが、『三国志』に登場する曹操は、後漢の宰相であり後漢と魏というのは、
連続した王朝である。
 だから、後漢鏡こそが、魏鏡であろう。後漢の朝廷の工房で作られた鏡を禅譲で受け継いだ魏の国が、卑弥呼に
与えたのであろうと簡単に類推出来る。

 その後漢鏡は、西日本、特に加古川より西にしか出土しません。これが倭国である。
 それに対して、三角縁神獣鏡というは、呉の国の遣いが我国(東鯷国の側)にやって来て、そこで兵士5,000人が
脱走した。という記録が『三国志』の中にある。 西暦230年頃 の出来事である。
 その僅か十年経つか経たないかのうちにいきなり近畿の土地に三角縁神獣鏡が出現した。

 上記の教科書に書いているように中国の工人が、日本にやってきてそこで作った鏡だという事になる。したがって、
私は「鯷呉合作鏡」と読んでいる。

 邪馬台国の女王卑弥呼は、西暦200年の即位と考えられる。
 神功皇后は、その120年後(干支二回り後)の西暦320年頃に即位にしたかはどうかはわかりませんが、その頃の
人物である。
 『日本書紀 神功紀』の晩年の割注に卑弥呼の名前こそ挙げませんが、『魏志倭人伝』の記録を載せている。
卑弥呼と神功皇后が、同一人物であるかのような書き方を『日本書紀』はしている。だから、通説の側では、時々、
卑弥呼と神功皇后はイコールではないかと言われる。

 不思議な事に戦後史学は、神功皇后は架空扱いであるので、我国の歴史においては卑弥呼だって架空扱いならない
とおかしい。
 しかし、通説は、卑弥呼だけは架空扱いしない。

 通説側でも古田武彦氏の九州王朝論の中でも取り上げられない『 宋史 日本国 』という中国の歴史書がある。
これは、中国の元の時代に脱脱という学者がまとめた正史です。
 その王年代紀は、平安時代に東大寺にいた僧、奝然が宗の国に渡って当時の宗の皇帝に差し出した書物である。
つまり、原典は日本の書物です。その中に神武天皇、神功天皇が書かれている。神功天皇という書かれ方があった
ようである。

 中国の学者が嘗てに神功皇后を神功天皇と書き換える訳はないので、元々、原紙にも神功天皇と書いてあったと
思われる。別名が、息長足姫天皇と書かれているので、神功天皇で間違いないと思われる。
 いつも述べるのですが、不思議な事にこの王年代紀には、大臣である紀武内が出てくる。どうして、大臣である
ハズの紀武内が出てくるのかという事もいつも田川の講演で述べてきた。