「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた

※ 聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた(平成29年6月3日 みやこ町歴史民俗博物館。4 日 嘉麻市NICO)の講演より

■ はじめに

 三月十九日に大芝英雄さんの「豊前王朝について」の講演を初めて拝聴した。その一節に、「近畿の『近つ飛鳥』は難波津即ち
近畿大和の西にあるが、豊前の『近つ飛鳥』は難波津即ち田川の東の行橋方面にある。」との解説・分析があった。
 それから数日、田川の知人宅でNHKの歴史ヒストリアの録画を視聴した。古墳の特集であった。「奈良盆地に三世紀から
前方後円墳が造られ続けたが、六世紀後半にアスカの地に突如として方墳が出現した。恐らく蘇我稲目の墓ではなかろうか。」と
研究者が述べた。
 この時、知人から既に「みやこ町の(かぶと)塚方墳」を見せられていた私は思わず跳び上がるようにして叫んだ、「甲塚方墳
こそ稲目の墓だ!」と。
 二十年に及ぶ筑豊探査の結果、やっと実在の蘇我氏に辿り着いた瞬間だった。

 (*)『履中記』に近飛鳥(ちかつあすか)は、河内の飛鳥。遠飛鳥(とおつあすか)は、大和の飛鳥とあるが、宮が行橋市の方面に遷って、
    今川(飛鳥川)の下流の方が、近つ飛鳥となり、元の飛鳥(赤村)が遠つ飛鳥という名前になる。

■ 蘇我氏の出自

 『古事記』孝元記の段に、

「此建內宿禰之子、幷九。男七、女二。波多八代宿禰者、波多臣、林臣、波美臣、星川臣、
 淡海臣、長谷部君之祖也。
次許勢小柄宿禰者、許勢臣、雀部臣、輕部臣之祖也。蘇賀
 石河宿禰
者、蘇我臣、川邊臣、田中臣、高向臣、小治田臣、櫻井臣、岸田臣等之祖也。

 とあり、蘇我氏が建內宿禰の第三子の蘇賀石河宿禰の子孫と記されている。
  建內宿禰の子として波多八代宿禰以下九人が挙げられ、それぞれ計二十七氏の後裔氏族が書かれているが、「この系譜が本来の
 帝紀にはない後次的な付加であることは明らかであり、葛城・波多・許勢・蘇我・平群・木等の氏を同族としたのは、推古朝頃の
 蘇我氏の勢力伸長の結果作為されたものである。」とする説が津田左右吉以来有力である(日本古典文学大系「武內宿禰」補注)。
  だが、『古事記』に蘇我氏の事跡は皆無である。他方の『日本書紀』には、蘇我氏の系譜がない。景行紀に、

「廿五年秋七月庚辰朔壬午、遣武內宿禰、令察北陸及東方諸國之地形、且百姓之
 消息也。」

 とあり、武內宿禰が初出する。
  また、應神天皇三年是歳条に、

「是歲、百濟辰斯王立之、失禮於貴國天皇。故遣紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・
 木菟宿禰、嘖讓其无禮狀。由是、百濟國殺辰斯王以謝之、紀角宿禰等、便立阿花爲王
 而歸。」

 とあり、石川宿禰が同じく武內宿禰の第五子とされる紀角宿禰(古事記では木角宿祢)と共に登場する。だが、蘇我氏の具体的な
 事跡は、宣化天皇元年二月条に登場する蘇我稲目以降にしか記されていない。
  なお、『新撰姓氏録』では蘇我氏を皇別(歴 代天皇から分かれた氏族)に分類している。
  以上の文献を分析総合すれば、六世紀後半の蘇我稲目大臣の突然の登場までは蘇我氏の系譜も事跡も明らかではないということに
 尽きる。
  ただ、蘇我氏が本当に武內宿禰の後裔であるなら、私の「倭国=豊国」説に於いては、筑紫国の「 水沼の皇都 」に展開された
 「 倭五王で知られる紀氏王朝 」の傍流の一族が、紀氏王朝の最盛期頃に豊国に移住して豊国王朝に仕え、何代か後に、稲目が
 宣化・欽明朝の大臣として歴史に登場したと考えられる。蘇我氏は或いは筑紫国の出かも知れない。
  さらに、兼川晋さんの説を借りれば、紀氏王朝は「兄ちゃん百済(沸流系百済)」の王朝であるから、蘇我氏も四世紀頃に
 百済から筑紫に渡ってきた渡来人かも知れない。

■ (近つ飛鳥)の都と陵や墓および寺院の候補地

地図「行橋市・みやこ町」

  候補地
  

稲童古墳群
庄屋塚古墳
馬ヶ岳
三ツ塚古墳

■ 天皇家と蘇我氏の歴史

・・・ 国府推定地(草場)にある官幣大社である豊日別宮( 草場神社 )が、樟葉宮(くすばのみや)

・・・ 九州最大規模の方墳である 甲塚方墳 蘇我稲目の墓、欽明陵「檜隈坂合陵」は探索中

・・・ 敏達天皇の百済大井宮は所在不明、磯長陵 庄屋塚古墳 

・・・ 用明天皇の池邊雙槻宮 黒田神社 科長中陵 橘塚古墳 

・・・ 守屋の資人捕鳥部萬と犬の墓が 八雷古墳 

・・・ 炊屋姬皇后の別荘(海石榴市宮)跡に建てられた四天王寺 椿市廃寺 

・・・ 法興寺 豊前国分寺跡 に建っていた

・・・ 推古天皇の科長大陵 綾塚古墳  彦徳甲塚古墳 が蘇我馬子の桃原墓

・・・ 法起寺が建っていた 上坂廃寺跡 (近つ)飛鳥板蓋宮  福原長者原遺跡 

・・・ 蝦夷・入鹿の家の甘樫丘 馬ヶ岳の中世の城跡 、蝦夷・入鹿の墓の双の墓 三ツ塚古墳 

■ おわりに

  乙巳の変は、倭国本朝(筑紫国)倭国東朝(豊国)との関係に深刻な影響を与えた。それは白村江の戦においては唐・
 新羅との外交方針の違いになり、倭国本朝の敗戦に至り、唐軍の大宰府占領という事態に至る。豊国の天智天皇が主権を奪回し、
 唐の捕虜となった筑紫君阿毎薩野馬が白村江戦の翌年に帰国し、天智の大皇弟(大海人皇子)として執務する。
  数年後、遂に 壬申の乱 が勃発し、 結局、筑紫君が再度主権を奪回したらしい。

  一方、蘇我氏は、六四五年の乙巳の変によって、入鹿が暗殺され、蝦夷が自殺するとその勢力は大幅に低下した。蘇我氏宗本家は
 滅亡したが、傍流の蘇我倉麻呂(蝦夷の弟)の子である蘇我倉山田石川麻呂が、中大兄皇子の協力者として関わっていた。
  石川麻呂はこの後、右大臣に任じられ、娘の遠智娘と姪娘を中大兄皇子の妃に出す。石川麻呂は六四五年に冤罪を着せられて
 自害し、讒言した弟の蘇我日向も大宰府に左遷させられた。
  だが、他の弟である蘇我赤兄と蘇我連子は、天智天皇の御世に大臣に任じられている。連子は天智天皇の称制の間に死去し、
 赤兄ともう一人の弟である蘇我果安は壬申の乱で天智天皇側について敗れ、それぞれ流罪・自害となった。
  その甥で連子の子である蘇我安麻呂は、天武天皇の信任が厚かったために蘇我氏の後を継ぎ、石川朝臣の姓氏を賜った。

  蘇我氏の血統は、今上陛下にも伝わっているようだ。蘇我稲目の娘である蘇我堅塩媛の系譜は、
   蘇我堅塩媛 ― 桜井皇子 ― 吉備姫王 ― 皇極天皇 ― 天智天皇
 と繋がり、平安朝以後の歴代天皇へと繋がっている。
  今回、蘇我氏を旧京都郡に探し当て、聖徳太子の正体まで暴くことになった。拙論の契機をなした大芝さんの豊前王朝論に深謝。