「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 鶴岡八幡神社(香春岳一ノ岳の東南)= 神武天皇の橿原宮(畝傍山東南の地)

以下、『 天香山争奪戦 』4~5ページより

 古事記の迦具土の前後には「香山の畝尾木本に坐す哭澤女神」が存在する。この「香山の畝尾」から「畝傍山」が派生したのなら、香春三の岳が本来の天香山であり、畝の尾に当たる一ノ岳が畝傍山と称されたことになる。
 私はこの位置関係から橿原宮を香春一ノ岳の東南麓の高野に比定したのである。そこには鶴岡八幡宮が鎮座し、柳井秀清氏によれば、さらにその以前に古い宮が鎮座していたとの由である。

 

以下、『越境としての古代[6]』の「神武は、筑豊に東征した」より

 ここには、鎮西八郎為朝が鎌倉から勧請した鶴岡八幡宮が鎮座する。御祭神は、一座 応神天皇、二座 神功皇后と続いて、三座に玉依姫命が祭られている。
 当社の由緒書きにも、「玉依姫命は豊玉彦の女、葺不合命の皇后にて、御容姿の美称なり、神武天皇の母君の坐す。」と記されている。
 宮司の鶴我盛恒氏に玉依姫がなぜ祭神かをお尋ねしたところ、昔から祭られているとのご返事を頂いた。鶴我氏は同社において「樫葉の山」と題する冊子を発行されている。
 その名の由来をお聞きすると、「当社の祝詞は、『樫葉の山にまします云々』で始まります。昔から樫の木が多かったことによります。」との簡単明瞭なご回答もあった。
 私は、これこそ神武の橿原宮建設以来の伝承と思われてならなかった。

 鶴岡八幡宮の由緒書きの続きに、「翌年(仁平三年)正月十一日、社殿を初め五寺一院四十八堂舎ことごとく竣工せしにより同月十六日新宮に奉齋す。この日為朝公は九州の諸大名高家、家臣を率いて参入し為朝公は拝殿に、その他は回廊、釣殿にいずれも衣冠束帯で仕候す。」とあり、また、「久寿元年三月勅使徳大寺中納言良房は命により、近衛天皇の御宸筆の『鎮西鶴岡若八幡宮』の勅額を持参して下賜される。為朝公これを拝受し掲げしむる。」ともある。
 中世の朝廷も源氏も、神武の橿原宮の所在を知悉していたからのような感すら与える。竣工時の宮の規模から考えても、鎮西八郎為朝は古代九州の由緒ある地に、源氏の氏神を祭ったようだ。
    (中略)
 橿原宮跡は、どうやら香春一ノ岳の東南「樫葉の山」に眠っているようである。

鶴岡八幡神社(畝尾橿原宮)

「写真:鶴岡八幡宮」

都は、畝傍(うねびの)橿原(かしはらの)(みや)
『古事記』に「(うね)火之(びの)白檮原(かしはらの)(みや)

『万葉集』に「可之波良能宇禰備乃(かしはらのうねびの)(みや)

 「畝傍山東南橿原地」の記述(畝傍山の東南の橿原の地を都と定める。)の通りの位置、香春町字高野に鶴岡八幡神社がある。

 神武天皇は、始馭天下之(はつくにしらす)天皇(すめらみこと)と称した初代天皇(大王)である。

 香春岳 一ノ岳(畝尾山)の東南、橿原の地に邸宅を造るは、「 邪馬臺国(邪馬台国)年表 」の120年
  橿原宮で即位は、121年

 

『日本書紀』神武天皇紀

 己未(つちのとひつじ)年 (中略) 三月(やよい)辛酉(かのととり)(ついたち)丁卯(ひのとう)に、(のりごと)を下して曰はく、「我を征ちしより、(ここ)に六年になりにたり。(かうぶ)るに皇天(あまつかみ)(いきほひ)を以てして、凶徒(あた)就戮(ころ)されぬ。(ほとり)(くに)未だ(しづま)らず、(のこり)(わざはひ)()れたりと(いへど)も、中洲の地、(また)風塵(さわぎ)無し。誠に皇都を(ひら)(ひろ)めて、大壯(おほとの)(はか)(つく)るべし。而るを今()(わかく)(くらき)()ひて、の心朴素(すなほ)なり。巣に棲み穴に住みて、習俗(しわざ)惟常(これつね)となりたり。()(ひじ)()(のり)を立てて、(ことわり)必ず時に(したが)ふ。(いやし)くも(かが)有らば、何ぞ聖の(わざ)(たが)はむ。且當(まさ)に山林を(ひら)(はら)ひ、宮室(おほみや)經營(おさめつく)りて、(つつし)みて寶位(たかみくら)に臨みて、元元(おほみたから)を鎭むべし。上は(あまつ)(かみ)の國を授けたまひし(みうつくしび)に答へ、下は皇孫(すめみま)(ただしきみち)を養ひたまひし心を弘めむ。(しかう)して後に、六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした)を掩ひて(いへ)()むこと、亦()からずや。觀れば、夫の畝傍山 畝傍山、此をば宇禰縻夜摩(うねびやま)と云ふ。東南の橿原の地は、蓋し國の墺區(もなかのくしら)か。(みやこつく)るべし」とのたまふ。
 是の月に、即ち有司(つかさ)に命じて、(みや)()(つく)り始む。 (中略)
 辛酉(かのととり)の春正月の庚辰(かのえたつ)(ついたち)に、天皇、橿原宮に即帝位す。

この辛酉(かのととり)(しんゆう)の年を西暦121年とした根拠は、中国史より

①  「後漢の光武帝が建武中元二年(57年)に奴国からの朝賀使へ(冊封の(しるし)として)賜った」

②  「卑弥呼が、景初二年(238年)以降、帯方郡を通じ数度にわたって魏に使者を送った」

  「倭国は元々男王が治めていた(国の成立の1世紀中頃か2世紀初頭)が、その後、70~80年間、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起きた。( 倭国大乱  の時期は2世紀後半)
 そこで、卑弥呼という女子を王に共立することによって、ようやく混乱が収まった。」

  西暦57年から238年の間の辛酉(かのととり)(しんゆう)の年は、121年と181年の2回ある。
  卑弥呼即位より7、80年前の辛酉の年は、西暦121年であり、それが神武天皇の即位の年 = 大和王朝(邪馬臺國)の 成立の年とした。

 

※ 2020年版 神武東征(陸)より

畝尾山(香春一ノ岳)の現在の姿
天智天皇の時代までは大物主神が祀られていた。
「写真:鶴岡八幡宮より香春一ノ岳を望む」
鶴岡八幡宮
 鎌倉より創建が五十年早い。
「写真:鶴岡八幡宮」

※ 第11回古代史講座 古代田川を解き明かす 宗像が末盧国なら邪馬台国は田川だ2
 (令和元年六月二日、於 田川青少年文化ホール)より

 記紀によれば、198年穴門に至り、200年に
気比に去っ
たこ
とにな
る。
 卑弥呼共
立の年に都
怒我阿羅斯
等は気比神
宮周辺に到
着した
 都怒我阿羅斯等大加羅国から崇神の死ぬ直前に穴門に来た。
 崇神が亡くなって垂仁に三年仕えた後、垂仁の元を離れ、日本海を東に遷り、敦賀の気比に到ったという話になる。
「写真(敦賀市)」
「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
崇神天皇

 

● 最初、穴門に来た都怒我阿羅斯等が3年間いた処を現人神社から鶴岡八幡神社に訂正

 香春町に「鶴我」さんという方がいらっしゃる。その家に系図のコピーを頂いた。ご先祖は、阿羅斯等です。都怒我阿羅斯等を先祖とされる方が、香春町にいる。鶴我家は、「都怒我号角鹿とある。
 都怒我阿羅斯等は、どこにいたのか? 香春町にある鶴岡(つるがおか)八幡神社である。西日本新聞に『新説 日本書紀』を出した時には、  現人神社 と書きましたが、訂正します。
 鶴岡八幡神社である。この神社の宮司さんが、鶴我さんである。都怒我阿羅斯等の子孫の鶴我さんが、今なお鶴岡八幡神社の宮司さんである。
 神武天皇が、この地で即位した80年後に大加羅国から都怒我阿羅斯等がやってきてここに住んだ。その子孫の鶴我さんが宮司をされている。ただの偶然ですかね?

鶴我家系図(香春町)

 では、伊都都比古とは何者か。私が飯塚の王とした垂仁天皇に他ならない「伊都々(いつつ)」だ。
 最初、穴門に来た都怒我阿羅斯等は3年間どこにいたか。
 香春町高野にある鶴岡八幡神社であるようだ。
系図「鶴我家 都怒我号角鹿」
系図「始祖 阿羅斯等」
「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
垂仁天皇

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