「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 謎の石造りの地下水路 = 斉明天皇の「狂心(たぶれこころ)(みぞ)

※ 平成二六年七月二一日(月)講演資料より
 尚、平成二八年の糸田町沁泉の紹介以降、斉明天皇の業績ではなく、天智天皇の業績に訂正背れています。

狂心の渠と吉野宮皇
 (斉明)二年(六五六)、(中略)
飛鳥の岡本に、更に宮地を定む。(中略)
號して後岡本宮と曰ふ。
 田身嶺に、冠らしむるに周れる垣を以てす。
復、嶺の上の両つの槻の樹の邊に、観を起つ。
號けて両槻宮とす。亦は天宮と曰ふ。
 時に興事を好む。
① 水工をして渠穿らしむ香山の西より、
石上山に至る。二百隻を以て、石上山の石を
載み
て、流の順に控め引く。
(菟道)宮の東の山に石を累ねて垣とす。
時の人の謗りて曰はく、
①狂心の渠功夫を損し費すこと、三萬餘
 ②垣造る功夫を費し損すこと、七萬餘
 宮材爛れ、山椒埋もれたり」といふ。
 (中略)
③ 吉野宮を作る
※ すべて天智天皇の業績

*.「流れの順に控め引く。」で切らないといけない。『日本書紀』 は読み誤り。
 「狂心の渠」と「垣を造る」の2つの事を書いている。

 

 石組みの地下水路(吹き出し)= 狂心の渠

「写真(石組みの地下水路)」
「写真(石組みの地下水路)」
「写真(石組みの地下水路)」

 狂心の渠(たぶれこころのみぞ)=「吹き出し」と呼ばれている「謎の石組みの地下水路」と宮(菟道宮)の東の
 山(大坂山)に垣を造ったとある(呉中平雪穴)とある。
  「香春町域遺跡分布図」上に香春三ノ岳(香山)の西からの地下水路①と大坂山からの地下水路②の推定経路を
 示したものである。

「吹き出し」と「宮の東の山の垣」の推定経路
「香春町域遺跡分布図上に推定経路を記入した図」

 

 何故、斉明天皇は、「狂心の渠(たぶれこころのみぞ)」を造る工事をする必要があったのか?

 豊後(大分の鶴見岳・伽藍岳 由布岳等)の火山活動の影響(亜硫酸ガスや酸性雨等)があり、飲み水や米作りの
水を必要としたので、天香山を取水地にして、石灰岩のアルカリ性で酸性の水を中和させて供給する地下水路を造った。

 高見大地氏の「 火山と宮処との地理的相互関係 」の説明です。

 桃坂豊氏の「 宮原盆地 謎の地下水路ついて 」の説明と地下水路推定図です。

 福永晋三先生のタイトル「万葉集の軌跡-倭歌が解き明かす古代史 それは香山(かぐやま)の東にあった!」の
 資料「 狂心の渠と吉野宮 」の11、14~15ページに下記の記述があります。

 ここに、新たな謎が立ちはだかる。
  「時の人の謗りて曰はく、『狂心(たぶれごころ)の渠。』」
  香春の〝吹き出し〟は今日なお香春の地に豊かな水を供給し、人々の農作に恵みを与えているではないか。
  築造当時も人民に多大の恵みをもたらしたことは想像に難くない。人々はむしろ喜んだはずだ。そう考えると、
 日本書紀のイデオロギーは、齊明天皇の業績を貶めるところにもあるのではないだろうか。
  これまでは遺構を探すのに精一杯であったが、いざ見つかった途端に狂心の渠」という呼び名がはなはだ
 不似合いであることに気づかされた。

「吹き出し」は「狂心の渠」ではなかった 

 現在もなお、香春の地に恵みをもたらしている「吹き出し=齊明の渠」は、当の齊明紀においてなぜ「狂心の渠
という不名誉を負わされたのか。
   (中略)

 『日本書紀』の原型は、おそらく、壬申の乱に勝利した天武天皇の革命王朝にあっただろう。日本書紀は、天武・
持統紀で結ばれている。

 拙論「倭国易姓革命論」で論じたように、天皇家は決して「万世一系」ではなかった。むしろ、「革命」の連続で
ある。中国の正史に見られるような「前王朝が天命を失い、我が王朝が新たな天命を享けて成った」とする考え方が、
日本書紀にもあるなら、「天武朝」は「齊明・天智朝」に「失政があって天命を失っていた」とするのではないか。
 それこそが「狂心の渠」の謂われと筆者には推量される。

 確かに、齊明天皇は火山災害に見舞われ、国事は多難を極めた。内は政情不安、外は唐・新羅相手の外交問題、
内憂外患に満ちた時代であった。
 その政事的混乱の果てに、壬申の乱は勃発し、天武の勝利に終わる。哀しいことに、齊明天皇の国家的事業は非難
の対象に貶められたと推量されるのである。

  齊明天皇の当代においては、おそらく「狂心の渠」ではなかったはずだ。
  香春の「吹き出し」がそれを証明するかのごとく、今日も豊かな水を吹き出している。