「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 幸ノ山 = 高山(たかやま) ⇒ 万葉集13、14番歌の「高山」の訓は「かぐやま」

 福永晋三先生のタイトル「万葉集の軌跡-倭歌が解き明かす古代史 真実の人徳天皇-香具山に登りて望國したまふ
 天皇
」の資料「 宇治の京 村高完成版 」の5、6ページの『万葉集 13番、14番』の追求の記述です。

『万葉集 13番、14番』 三山歌

「画像(万葉集一三、一四番)」

 

五社八幡神社より見た幸ノ山(高山)

「写真(幸ノ山)」

 

 従来、三山の性別について長大な論争があるが、
 後半の「妻争い」の一点に焦点を絞って解釈すると、香具山(男)は畝傍山(女)を愛しいと思い、耳成山(男)と
争った。
 神代からこうであるらしい。昔もそのようであるからこそ、現世の人の世でも(他人の)妻を争うらしい。
 <反 歌>
 香具山と耳成山とが争った時に、阿菩の大神が出雲を発って見に来た印南国原はここなのだなあ。
という大意になろう。
 反歌の解釈は、『播磨国風土記』の三山相闘の伝説が関わる。

 上岡の里 本は林田の里なり。土は中の下なり。出雲の國の阿菩の大神、大倭の國の畝火・香山・耳梨、三つの山
相闘ふと聞かして、此を諫め止めむと欲して、上り来ましし時、此處に到りて、乃ち闘ひ止みぬと聞かし、其の乗らせる
船を覆せて、坐しき。故、神阜と號く。阜の形、覆せたるに似たり。

 『播磨国風土記』の三山「畝火・香山・耳梨」は、万葉集の「雲根火・高山・耳梨」に相当するから、一三・一四番歌
の「高山」が「かぐやま」と従来、訓まれてきた。
 だが普通に「香山」あるいは「香具山」と表記すればよいところを万葉歌は「高山」と表記するから、別山であるとした。
 また、「天の香山」を記紀の「赤銅を産する山」との記述から香春岳三ノ岳に、耳梨を二ノ岳に、畝火を古事記神代の
「畝尾」の表記に着目して一ノ岳に比定し得た。
 さらに各地に残る「三山伝説」の典型として、恋の成就した二山は並び、恋に破れた一山は離れた場所にあるとのパター
ンが存在する。
 その点、香春岳三山はいささか異色である。天の香山と畝尾山との間に耳梨山があるとは言え、恋に破れたらしい天の
香山はそれほど離れているとは言いがたい。
 以上を踏まえて、「高山」がもしも「香山」と別山であるなら、香春岳三山から少し離れたところにあるのではないか。
 そう考えて現地調査をした時に、行橋市入覚の地に「幸ノ山(一七八メートル)」を見出したのである。高見大地氏・
上川敏美氏の助けもあって、この山麓に明治期まで「高山(たかやま)」の字名が残されていることが知られた。
 そこは「三山伝説」の典型どおりに、耳梨・畝火からは一山越え、北東に離れたところである。

 次に、27~29ページ「三山歌の真意 - 妻争い」については、

 先に、妻争いに絞って解釈したが、初句「高山」は元はやはり「香山」と書かれ、「カグヤマ」であっただろう。
 そうして、通説どおり、「雄男志」の表記に従えば、「香山(女)」と「耳梨(女)」が「畝火(男)」を争った歌で
あったようだ。
 元は「夫(つま)争い」の歌と解釈して差し支えない。
 これを「香山」を「高山」に、「夫」を「嬬」に替えたのではないかと思われる。

 これまで縷々述べてきたように「高山」は 難波高津宮 の地にあり大鷦鷯尊を暗示する。「耳梨」は「金野の 宇治京 」が
香春町の宮原の辺りであるなら、耳梨山すなわち香春岳二ノ岳の直近にあり、「菟道稚郎子」を暗示させる。

 そして「畝火(嬬)」は「髪長媛」を暗示することになる。
 しかも、神代の神話をモチーフとするから、庶民の妻争いなどではない。貴人の妻争いであろう。
 万葉集では、亡くなられた天皇を「神」と表現することが多いから、あるいは天皇の妻争いであり、應神紀・仁徳紀の
 髪長媛 に関する
記事の内実が、その背景として考えられていたのではないだろうか。

 高山大鷦鷯天皇)は畝傍山髪長媛)を愛しいと思い、耳梨山菟道天皇)と争った。神代からこうであるらしい。
   昔もそのようであるからこそ、現世の人の世でも(他人の)妻を争うらしい。』

 

 宇治天皇の三度目の國見の山(高山、ここでは「かぐやま」の訓ではなく、「たかやま」である。) 

 著書『真実の仁徳天王』の「V忘却せられた絶唱 君が行き日長く成りぬ」より

 宇治天皇の高山行幸 

 「高山」への行幸である。現在の行橋市入覚にある「幸ノ山(こうのやま)」のことである。難波高津宮跡と思われる
五社八幡神社には何度か訪れた。
 その向かいにあるのが幸ノ山だ。五社八幡神社に三度目に訪れた時のことだったか、神社の石段の下に少しばかりの
広場があり、そこに小学生が数人遊んでいたことがある。
 向かいの山の名を知っているか聞いたら、彼らは「みゆきの山」だと答えた。「誰か天皇が来たの?」と聞いたら、
すかさず、「うん、景行天皇が土蜘蛛退治に来られたんだよ」との返事。驚いて「誰に教わったの?」と聞いたら、
「椿市小学校の校歌に歌われているよ」との返事にまた驚いた。この後、彼らに校歌を歌ってもらい、それをビデオに
収めて帰京したことがある。
 それからしばらくして「真実の仁徳天皇」を書き上げたのだが、さすがに、この時は「幸ノ山」の本来の由来に気付
いていなかった。
 私の追究から云えば、これは確かに「宇治天皇の幸ノ山(みゆき)」であり、しかも生前における最後の国見なさった
ところの山なので
あった。古事記の聖帝伝説に次のようにあった。
 是に天皇、高山に登りて、㈣方の圀を見たまひて詔りたまひしく、「圀の中に烟發たず。圀皆貧窮す。故、今より三年に
至るまで、悉に人民の課役(えつき) を除(ゆる)せ。」とのりたまひき。是を以ちて大殿破れ壊れて、悉に雨漏れども、
都かつて修理すること勿く、椷(はこ)を以ちて其の漏る雨を受けて、漏らざる處に遷り避けましき。
 後に圀の中を見たまへば、圀に烟滿てり。故 人民富めりと爲はして、今はと課役を科せたまひき。是を以ちて百姓榮えて、
役使(えだち)に苦しまざりき。故、其の御世を稱へて、聖帝の世と謂ふなり。

 傍線部にあるように、 宇治天皇は二度、香具山に登られ国見をなさった。仁徳記では、原文「高山」を「高き山」と
江戸期以来誤読してきた。これを私は「高山」とし、万葉集一三番と同じく、「かぐやま」と訓読すべきと判断した。
ここから、万葉集二番歌と仁徳紀との関わりを論証し、終に宇治天皇の三年四月の二度目の「香山に登りて望國なさった」
歴史事実を抽出した。
 同時に髪長媛皇后の「春過ぎて」の歌も再確認した。だが、ここにはもう一つの奥深い謎が隠されていたようだ。
 それは宇治天皇の三度目の国見である。そここそが、 「高山(たかやま)」であり、大鷦鷯の難波高津宮のすぐ向かいの
山なのである。
 恐らく、大鷦鷯が宇治天皇殺害を企んで、三度目の国見に招いた山なのであろう。人の善い宇治天皇はその招きを疑う
こともなく、比良の新宮殿での人民と共に「難波の春」を寿いで間もなく、高山に行幸されたらしい。
 宇治天皇四年(四〇九)正月のことと今まで考えていた。が、県神社の「暗闇祭り」の伝承に拠って、陰暦夏五月に
高山に登られたらしいと考え直した。

 高山での悲劇 

 最悪の悲劇は、恐らく比良の宮へ還御なさる途中、陰暦五月五日の深夜に起こったようだ。
 その夜、難波高津宮周辺の人々は大鷦鷯の兵らの命令ですべての灯火を消し戸を閉ざし、あたりは水を打ったような
静かな暗闇となる。
 物音一つない暗闇の中を大鷦鷯の兵が這うようにして宇治天皇の御宿舎へと近づく。突然、御宿舎の扉が荒々しく音を
立てて開け放たれる。宇治天皇の従者らが皆殺しに遭う。
 再び戻った静寂の中を、宇治天皇を載せた輿がゆっくりと難波高津宮の御殿の方へと向かう。宇治天皇はある建物の
中に放り込まれ扉は閉じられ、その中で殺害された。(暗闇祭りの内容を改編)

『萬葉集』巻二の 冒頭部の四首(八五~八八) は、大鷦鷯の乱とも云うべき歴史事実を背景にして、宇治天皇の崩御
 後に残された髪長媛皇后に仮託して詠まれた連作と推測されるのである。

 

<所在地のGoogelマップ> ・・・ 幸ノ山:この山麓に明治期まで「高山(たかやま)」の字名が残されていた。