「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 片島/笹尾稲荷神社(若八幡宮)= 神武・東征の地(皇軍上陸の地を指す)

鞍手郡誌(昭和 9 年発行版)射手引神社社伝による神武天皇東征の地( 東征コース  S:片島)

以下、『越境としての古代[6]』の「神武は、筑豊に東征した」より

片島(同二瀬村) 
 加多之萬、又は堅磐と書き皇軍上陸の地を指す十世紀の田河道の網別駅伏見駅の中間辺りに「堅磐郷」の名が見える。

「絵図」

西海道北部の駅道(『延喜式以前』の駅家と駅路)『香春町史』上巻より

 「矢田彦」は「ヤタひこ」であり、 頭八咫烏 の一族と推測される。鯰田から片島までは、立岩を迂回するコースになる。今日の片島の対岸に立岩丘陵が広がる。
 片島(当時は間違いなく小島)の上陸地点とみなされる場所に若八幡宮(大字片島字亀甲)が鎮座する。祭神は大鷦鷯命、息長足姫命、品陀別命、綿津見神となっていて、福岡県神社誌には由緒不詳とある。むしろ、近くの神社に伝承が残されていた。

若宮八幡宮(大字伊岐須字尾畑)縁起

 「天皇、この邊すべて水泥相混じて土地未だ凝結せず、天皇漸く此の地に達し、暫く御蹕を駐め給ふて宣はく、此の地堅き事岩の如し宜しく今より加多之萬となづくべし。
 また、宣はく、水泥相混すれば即ち田畠開けず、以後此処に水土の神を祭りて、宣しく其の擁護を祈るべしと、即ち片島明神、貴船明神の起因なり。
 (古代史の復元)

磯城彦との立岩丘陵の激戦。片島へ上陸は、「 邪馬臺国(邪馬台国)年表 」の 118年 十一月 です。

 

※ 古事記を読む-神武から景行まで(平成28年9月25日、於 添田町町民会館)の講演より

『古事記 安寧天皇』

 師木津日子玉手見の命、片鹽の浮穴の宮に坐しまして天の下治しめしき。

 

 <所在地のGoogelマップ> ・・・ 「片島」は、笹尾稲荷神社で表示