「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


[泌泉に漏刻が造られたのは、天智天皇七年である]

■ 天智七年=斉明七年?

・皇祖母尊即天皇位、(斉明)七年七月丁巳崩、皇太子素服稱制

・(天智)三年春二月己卯朔丁亥、天皇命大皇弟、宣増換冠位階名及氏上・民部・家部等事。
    (この条は全体として、または部分的に天智天皇十年条 と重出しているらしい。〈日本古典文学大系頭注〉)

・(斉明六年)「方今謹願、迎百濟國遣侍天朝王子豐璋、將爲國主。」云々。送王子豐璋及妻子與其
 叔父忠勝等、其正發遣之時見于七年(六六一年)

 斉明天皇七年の記事に称制(しょうせい)とあり、天皇位に就かずに天皇としての政を行った。次の天智天皇三年の記事に大皇弟
(大海人皇子)に命じて官位を改定したとある。
 「日本古典文学大系頭注」に書いているように天智紀には、時代を隔てた時期に同じ記事が書かれている例が、数例ある。
この天智天皇三年の条は、天智天皇十年と7年ズレて重出している。斉明天皇は、七年に崩御する。
 この七年と同じ7年である。

 もう一点、須弥山が作られた年と同じ斉明天皇六年の記事に次のような内容が書かれている。百済が唐・新羅の連合軍に敗れて
国を失う。
 その時に、日本に王子豐璋が人質として送られていたので百済の家来達が、百済を再建する為に王子豐璋を返して欲しいと日本
(豊国)までやって来た。それで王子豐璋を送り帰した。
 そこの記事の注に王子豐璋および妻子とその叔父忠勝等を送る。その正しく發遣した時は、七年に見えるとある。

 『日本書紀』は、斉明紀・天智紀・天武紀と一年ズレの問題がある。このことは、日本書紀に採用された中国の暦が元嘉暦と
儀鳳暦と、儀鳳暦と麟徳暦とか王朝が変わる事によって暦の制度が変わり、結果として一年ズレの問題を起こしている。
 朝鮮でも日本でも中国でも起きている。
 したがって、白村江の戦いが、六六二年説と六六三年説に分かれる原因でもある。ここに一年ズレ問題がある。

■ 日本書紀の紀年の謎

 日本書紀の紀年 

 豊前国の舊記 

 斉明元年

 天智元年  称制

 斉明六年  豐璋等発遣、須弥山・漏刻建造

 斉明七年  右記の記事の実年
         皇太子 称制

 天智七年  須弥山・漏刻建造
 (661年)

 天智元年

 天智八年  

 天智三年  官位改定の記事

 天智十年  同左の記事

 天智九年  天智崩(扶桑略記)

 天智十年  官位改定の記事重出
         漏刻建造(理由不明)

 天智天皇の在位の数え方ですが、斉明天皇を助けて稱制(摂政)を行うが、その斉明天皇元年をそのまま天智天皇元年と数えた
記録が『日本書紀』の中にあちらこちらに分散してある。
 もう一つには、斉明天皇の七年の崩御して稱制を始めた年を天智天皇元年とする説があるという事は、『日本書紀』が編纂される
時に天智天皇の在位を数える史書が最低2種類存在していて、その記事をそのまま分かれたまま記録した。
 だから、『日本書紀』は斉明天皇六年の須弥山を作る処の記事に皇太子が始めて漏刻を造る。また、天智天皇十年にも始めて
漏刻を造るとあるが、この記事は元々は同じ記事である。
 漏刻は、同じ時期に造られている。この記事は、7年ズレて重出されている。

 また、天智天皇三年の官位改定記事が、天智天皇十年にも重出されていて7年ズレている。この7年の大きなズレと上記の暦の
違いによる1年ズレを整合すると 斉明天皇七年 = 天智天皇七年 ということが成り立つ。
 斉明天皇は、最初に皇極天皇として即位していた。孝徳天皇に位を譲ったが、再び天皇位に就かれる。これを重祚(ちょうそ)
いう。
 この重祚の時に実際には天智は天皇として事実上、即位していたのでないかという事で、斉明天皇元年は、そのまま、天智天皇
元年と数える数え方があったらしい。

 斉明天皇六年の記事に須弥山を造る。皇太子、始めて漏刻を造る。とあり、1年ズレの問題で、これが斉明天皇七年であり、
斉明天皇七年の記事だとすると、それは、天智天皇七年と数えることが出来る。
 天智天皇十年に始めて漏刻を造るという記事があるが、これは天智天皇十年の記事では無かった。
 これが『日本書紀』に書かれているカラクリだとすれば、泌泉の説明(伝承)に記されている天智天皇七年の年数が、一番
正しかった。天智天皇七年に糸田の泌泉の地に須弥山と一緒に漏刻が造られたその跡である。

 斉明天皇の須弥山

「画像(斉明紀の記事)」

 600年(豊国天智天皇六年)~665年(天智天皇四年)

「画像(天智紀の記事)

 『日本書紀』斉明天皇六年に「始めて漏刻を造る」、天智天皇十年に「始めて漏刻を造る」とどちらにも「始めて」あるが、
同じ記事の事が書かれているだけなので、どちらも「始めて」とあっても構わない。
 『日本書紀』の編集者が判らずに両方の年にこの記事を貼り付けただけである。この斉明天皇六年の記事が、1年ズレ問題で
斉明天皇七年の記事とすれば、斉明天皇七年 = 天智天皇七年の記事となる。
 豊前の土地の先祖達が残した凄い伝承が、泌泉の伝承である。その泌泉の伝承は、跡が残っているから凄いというだけでなく、
『日本書紀』のカラクリまで教えてくれているという二重に凄い伝承である。

 だとすれば、「壬申の乱 最後の豊国北伐」に書いている紀年の年が変わってくる。天智天皇六年、都を近江に遷す。という
記事は、7年前の白村江の戦いの敗戦前にあたる。
 660年に近江に遷都した後の661年に漏刻を造る。その後に白村江の戦いに敗れる。敗戦で弱ったところで大海人皇子が反乱を
起こす。これが壬申の乱である。