「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 泌泉(たぎり) = 天智天皇七年(旧記、661年)に須弥山と漏刻が造られた跡

※ 古事記を読む-神武から景行まで(平成28年9月25日、於 添田町町民会館)の講演より

 沁泉は、円と方の組み合わせである。元々、漏刻は暦を計る装置と対になって初めて時を計ることが出来る。漢代から
そうである。円のところに占星台を、方のところに漏刻があれば合理的である。

※ 壬申の乱の舞台 糸田の「泌泉」は天智天皇の「漏刻」跡だった(平成28年11月27日、於 糸田町文化会館)の講演より

 天智天皇が、豊前(倭国)にいた証拠がないのかを捜していた。そこに現れたのが、糸田町の「泌泉」である。福岡県
神社誌に「糸田金村権現宮は、天智天皇7(668)年秋8月、右大臣金連公によって造営されたものである。
   (中略)
灌漑に大い役立った。」とある。
 この「泌泉」が証明している。天智天皇が、ここ糸田にいらっしゃられてた。金連公もいらっしゃった。
 しかし、何故、この地に灌漑設備が造られたのかが謎であった。「 壬申の乱 」に登場する天智天皇と右大臣金連公の両者が
関係する灌漑設備といわれる泌泉が何故造られたのか?

■ 泌泉(たぎり) 

『福岡県神社誌』による「糸田金村権現宮」の記述

「写真(説明板)」
「写真」

 

「糸田金村権現宮」の説明

  福岡県神社誌に「糸田金村権現宮は、天智天皇7(668)年秋8月、右大臣金連公によって造営されたものである。
 天皇に随い、筑紫の要害の地を巡視の折、糸田の郷に至り権現の示現を蒙った。鉾をもって探地したところ神泉を
 得、灌漑に大い役立った。」と記されている。
  開の山一帯に降った雨水は、山腹の擂鉢状のドリーネから地下水脈をくぐり泌泉付近に湧出、泌川がかり180町歩の
 灌漑に欠かせないものである。泌泉は「いとよき田」、糸田の地名の起源ともいわれる。

                        平成10年6月30日、町文化財第4号に指定   糸田町教育委員会

 

新羅慶州の瞻星台 + 泌泉

「合成写真」

 於石上池邊須彌山、高如廟塔

糸田町の泌泉の地が、日本の「時の記念日」の発祥地   

絵+写真

 日本における時刻のはじまり
 天智天皇の10年 4月25日に始めて漏刻を新しい台に設置して鐘鼓を鳴らして
 時を告げたとの日本書紀の記述が、日本における最古の時報の記録となります。
 太陽暦に直すと西暦671年、6月10日。   
  

 

『日本書紀』天智天皇十年の記事

 十年春正月己亥朔庚子、大錦上蘇我赤兄臣與大錦下巨勢人臣進於殿前、奏賀正事。癸卯、大錦上
 中臣金連命宣神事。是日、以大友皇子拜太政大臣、以蘇我赤兄臣爲左大臣、以中臣金連爲右大臣
 以蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣爲御史大夫。御史蓋今之大納言乎。甲辰、東宮太皇弟奉宣或本云
 大友皇子宣命
施行冠位法度之事、大赦天下。法度冠位之名、具載於新律令也。
 夏四月丁卯朔辛卯、置漏剋新臺始打候時動鍾鼓、始用漏剋。此漏剋者、天皇爲皇太子時、始
 親所製造也、云々。

 糸田町の泌泉は、天智天皇七年に灌漑設備を造ったとの記録であるが、右大臣中臣金連が出てくる。しかし『日本書紀』では、
天智天皇十年に初めて漏刻が造られたとある。
 その十年春正月に中臣金連は、右大臣に昇進する。その後の、夏四月の漏刻を新しい台に置いた。始めて鐘鼓を動かして時を
打った。始めて漏刻を用いた。とあるその後の記事にこの漏刻は、天智天皇が皇太子の時に始めて自ら製造する云々と書いてある。
 この泌泉の天智七年の記事と『日本書紀の』天智十年の記事は、イコールであろう。これを解き明かす前に、 通説の漏刻 
ついての確認である。

■ 瞻星台は、須弥山か? 

 新羅慶州の瞻星台については、『三国遺事』の記述は「この王(善徳女王)の時に石を加工して瞻星台を築いた」とあるだけで、
用途についての記録は残っていない。
 論争の一例として、善徳女王が仏教に力を入れていたこともあり、仏教の発展を願い、霊山である須弥山を模った祭壇ではないか
という主張もなされた。      

 『日本書紀』斉明天皇六年に皇太子(後の天智天皇)が初めて漏刻を造るの記事の後に、石上(いそのかみ)の池辺須弥山
作る。高さは廟塔の如し。とある。
 天智天皇十年に漏刻を初めて造ると同じ内容があり、漏刻と須弥山が同時に造られた記事がある。瞻星台は、 須弥山 の可能性も
ある。      

■ たぎり(沸水) 

 「たぎる」という文字は、「沸る」であり、この土地のあちらこちらの田んぼの中から水が湧き出しており、この周辺一帯が
元々、 沸水(たぎり) と云われる土地であった。そこに造られたのが、泌泉である。   

■ 於石上池邊作須彌山、高如廟塔 

 この『日本書紀』斉明天皇六年の記事の「石上」を「いそのかみ」と読むのか?「いそ」という漢字は通常は「磯」と書く。
ここ豊前の人々が、奈良県(大和)に移って、「磯上」の地名も移した。
 しかし、奈良県は海無し県なので、海岸の「磯」という字では困るので「石」という字に変えて、それでも「いそ」と読ませて
いるので、神社も石上(いそのかみ)神宮という。
 元々の磯上神社はこちら福岡県である。石上の池辺とあり、糸田町のこの近くまでギリギリ海が入っていた。  

■ 泌泉に「天智七年、右大臣金連公」と書かれているのか? 

 斉明天皇六年の須弥山を造る。皇太子、始めて漏刻を造るという記事は、『日本書紀』の1年ズレ問題により、斉明天皇七年の
記事であるならば、 斉明天皇七年 = 天智天皇七年 となる。
 泌泉の伝承にある天智天皇七年と書かれた年は、正しい。天智天皇七年に須弥山と一緒に漏刻が造られたことになり、その跡
こそがこの泌泉である。

 泌泉の古代史(福永説)
  ・大友金村(四九八~五四〇年)が淡海の引いた土地に地下水路を引いて灌漑を施し、一帯は たぎり (沸水)の地となる。
    元は磯の地に田 が拓かれ、いそだ と呼ばれ、後に 糸田 と転訛した。
  ・天智天皇七年(六六一年)、(いその)上池辺須弥山漏刻 が造られ、始めて時を人民に知らせた。時の記念日 は、
   この糸田の 泌泉の地に発祥 した。
   泌泉は豊富な湧き水の地に計画的に一定量の水が 泌み出すように造られた優れた建造物であり、ひせん と呼ぶべきである。  

 ここ泌泉の地に漏刻が造られたのであれば、遷都した天智天皇の 近江大津宮 は、この近くの場所にある事になる。

※ 『日本書紀 天智天皇紀』「斉明天皇七年の七月、皇太子、長津宮に遷り居します。」とある長津宮は、中間市の 御舘山 
 比定しています。白村江の戦いの敗戦後、天智天皇四年の冬十月、唐の兵士を閲兵した菟道は、香春町の 阿曽隈社 である。

<ご参考>

『日本書紀 天武紀 四年 』 ・・・ この天武紀の「占星台」の記事は、「天智天皇紀」から分断された記事ではないか考える。

庚戌に、始めて占星臺を興つ。

 

 <所在地のGoogelマップ>