「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


[瞻星台は、須弥山の可能性もある]

斉明天皇の須弥山

 (六年)夏五月辛丑朔戊申、高麗使人乙相賀取文等、到難波館。是月、
有司、奉勅造一百高座・一百衲袈裟、設仁王般若之會。又、皇太子初
造漏剋、使民知時
。又、阿倍引田臣闕名獻夷五十餘。又、於石上池邊
須彌山、高如廟塔
、以饗肅愼卅七人。又、舉國百姓、無故持作兵往還
於道。國老言、百濟國失所之相乎。  

飛鳥資料館に展示される
須弥山組の一部

「写真」

 『日本書紀 斉明天皇紀』の六年に皇太子(後の天智天皇)が、初めて漏刻を造る。民を
して時を知らしむ。
 石上(いそのかみ)の池の辺に須弥山を造る。高さ廟塔の如しとの一句がある。この記事に
基づいて、奈良県の飛鳥資料館に右の写真の噴水、水を噴く石組みの高さ2.3mの須弥山が造ら
れている。
 これは、偽物である。『日本書紀』の原文には、須弥山とは書いていません。水落遺跡が、
石敷であるので、近畿説の学者が、石の文字を付けて須弥山石を云っているだけである。

 須弥山(仏教の世界観)

「須弥山の概念図」
「写真(沁泉)」

 仏教の世界観の須弥山の想像図は、須弥山には帝釈天が住んでいる。その周りを東から持国天、広目天(南)、増長天(西)、
多聞天(北)の四天王が守っている。一番下に奈落の底がある。そこには、閻魔王がいる。
 塩水海があり、その内側に淡水海があり、その中に島(土地)がある。その中央に須弥山という山が立っている。

 泌泉の池の中には、石が残っている。泌泉の形は、須弥山の世界観の図にそっくりである。

 新羅慶州の瞻星台

「写真」

  高さ:9.17m
  地上部の直径:5.17m

 新羅慶州の瞻星台 + 泌泉

「合成写真」

  『日本書紀 斉明紀』
  於石上池邊作須彌山、高如廟塔

 泌泉の須弥山 径11㍍

「写真」

 新羅慶州の瞻星台について、『三国遺事』の記述は「この王
(善徳女王)の時に石を加工して瞻星台を築いた」とあるだけ
で、用途についての記録は残っていない。

 論争の一例として、善徳女王が仏教に力を入れていたことも
あり、仏教の発展を願い、霊山である須弥山を模った祭壇では
ないかという主張もなされた。

 現在も韓国内の学会では、両説の併記である。したがって、
瞻星台では無く、須弥山の可能性もある。
 これが日本でも造られていて、泌泉の丸い池の中に造られて
いた可能性が大いにある。

 そうであれば、『日本書紀 斉明天皇紀』の「石上(いその
かみ)
の池の辺に須弥山を造る。」の記述と合う。
 「高さ廟塔の如し」とあるが、この泌泉に造られたとすれば、
池の直径が11㍍あり、約10㍍前後の直径で新羅慶州の瞻星台と
同じような形で造られたとすれば、ここ泌泉の瞻星台の方が大
きかった事になる。

 吉野宮を作った斉明天皇については、土木工事を好んだ天皇
だと『日本書紀』に書かれている。
 巨石の石垣で築かれた吉野宮(中津市山国町の若宮神社)や香春町宮原にある「吹き出し」と呼ばれる約4kmにおよぶ謎の地下
水路があり、これが延べ3万人の人夫で造られた「狂心の渠」と思われる。
 やはり、これも石組の地下水路である。これだけでもここに新羅慶州の瞻星台のような建動物を造れる証明となる。

 王塚古墳は、筑豊の須弥山か?筑豊にある装飾古墳は、内部の天井までが高い。これは、瞻星台の内側を表した物かも知れない。
下側は、波・水面、上側は、星が描かれており、王塚古墳の主は、仏教世界の須弥山の中に眠っている。

 筑豊の須弥山?王塚古墳

「写真」

 王塚古墳墳丘, 『王塚古墳』は六世紀中ごろに作られたと
考えられる前方後円墳です。
 昭和9年に福岡県嘉穂郡桂川町大字寿命で、採土工事中に、
偶然発見され、多数の馬具 、武器、銅鏡、装飾品、土器類を
出土しています。