「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 飯盛山 = 倉椅(くらはし)山(鞍橋神社:鞍橋(くらじ)君の祀られた山)

※  伊都(いつ)国の歴史 (令和5年11月26日(日) 第29回古代史講座より

 欽明天皇15年((554年))に内臣に率いられ百済への援軍として朝鮮半島に渡った一団の一人と考えられ、弓を得意とした。
 しかし、この戦いは百済の敗北に終わり、百済の聖明王は奇襲を受け殺害され、その王子余昌(のちの威徳王)も新羅兵に包囲されてしまうが、このとき陣中にあり進み出でた筑紫国造が矢をつぎつぎと放ち敵の包囲を射ち破ったことで、余昌たちは間道から脱出することに成功したという。
 その弓の威力はすさまじく、敵の騎兵の鞍橋(馬鞍の前後に付くアーチ)を射抜いてさらに鎧にまで矢が通る程であった。戦後この活躍にちなみ余昌よ
鞍橋君(くらじのきみ)という尊名
を贈られた。
 福岡県鞍手郡鞍手
町の「くらで」は「
くらじ」が訛ったも
のとされ、飯盛山
ある鞍橋神社では
橋君
が祀られている。
鞍橋君
「写真:鞍橋神社(鞍手町の飯盛山)」

 福永晋三先生のタイトル「万葉集の軌跡-倭歌が解き明かす古代史 鷦鷯(さざき)取らさね―蔽い隠された皇位継承戦争の 悲劇」の資料「 雀取らさね 」の11~16ページ女鳥王(めどりのみこ)雌鳥皇女(めとりのひめみこ)速総別王(隼別(はやぶさわけ)皇子) の乱に関する地名の「伊勢神宮は、磯宮(元伊勢)の天照神社である。」の詳細説明があります。

『日本書紀』と『古事記』を整理した、女鳥王(雌鳥皇女)速総別王(隼別皇子)の逃亡経路は、

伊勢神宮(=磯光の  天照宮 )に向かって馳せる。(書紀)

倉椅山(=鞍手町の 飯盛山)を越える。(古事記)

伊勢の蔣代野(=飯塚市の  菰田 )で殺される。(書紀)

 

『日本書紀 欽明天皇紀』
  十五年の十二月
 余昌、国造の、囲める軍を射却けしことを讃めて、尊びて名けて 鞍橋(くらじ)と曰ふ。鞍橋、此をば 矩羅膩(くらじ) と云ふ。
「写真:飯盛山(鞍手町)」

 飯盛山=倉梯山

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