「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 天照(てんしょう)神社 = 磯宮(元伊勢)

※ 天照神社
  祭神:天照国照彦(あまてるくにてるひこ)(あめの)()(あかり)櫛玉(くしたま)饒速日(にぎはやひの)(みこと)

「写真」

※  伊都(いつ)国の歴史 (令和5年11月26日(日) 第29回古代史講座より

由 緒
 垂仁天皇十六年當郡宮田村笠城山に降臨  長屋山筒男に神勅有て笠城山の麓三井か淵に大いなる(なまず)住てしば〱人を食ひしを、殺さしめ玉ふ鮧の背に鞍を掛けたる如くなる所有し故に淵の名を鞍掛の淵と言ふ  其の時大神の授け玉ひし劔にて伐る其の血を洗ひし時川の色赤くなる故に其の所を血色の淵と言ふ  磯光本城の間に有り、同帝七十七年戊申の春笠城山の嶺に神殿を造る鄕民鞍手々と言ひしを一郡の惣名となれり  又稻の初穗を麓の谷に掛て大神に奉る故に其の谷を穗掛谷と言ふ  十九代允恭(いんぎょう)天皇の時社野火にかゝる又高山に老幼の輩登る事なやみ有とて麓の穗掛谷に宮所を移す其の時數千の石を集めて其の上に神殿を建しかば後世其の所を千石原と言ふ
縣社  天照神社
  鞍手郡宮田町大字磯光(いそみつ)儀長(ぎちょう)
 その後天長五年の冬明野の里に宮殿を建移し奉る今の脇野是なり、又三代實錄に陽成(ようぜい)天皇元慶(がんぎょう)元年十二月十五日筑前國正六位上天照神に從五位を授け玉ふと有は當社他其の後九十五代花園天皇(えん)(きょう)元年或る人の夢に大神告て曰く白き鶴の住む所に廟を移すべき由示し玉ふ然るに今の鶴田の里に白鶴雌雄二羽來る依て明野より移轉す鶴田村と名づく宮造は西國の探題(たんだい )惣政所(そうまんどころ)玄朝建立と棟札あり社田町五反寄附有しに足利の世に沒収せらる  今は村内に古神田と言ふ字殘れり延寶(えんぽう)八年直方の領主黑田伊勢守長淸舊廟を造營す。
明治五年十一月三日村社に被定。
昭和十一年四月十一日縣社に列せらる。
縣社  天照神社
  鞍手郡宮田町大字磯光(いそみつ)儀長(ぎちょう)

 

 『天香山争奪戦』 5ページより>

天照大御神が何者であるか。

 私の方では、旧鞍手郡宮田町磯光の天照宮に祀られている「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」を指すことになる。
 この尊は神武東征に出現した「天神」でもあり、古事記の天孫「迩迩藝の命」の兄「天火明」に当たる神でもある。
 また、 笠置山 を挟んで、飯塚市側にある天照神社においては、「天照大神・瓊瓊杵命・手力男命」の三柱の神が祀られていて、天照大神と瓊瓊杵命が 兄弟 であること、そして手力男命との関係からは「天の石屋戸」の「天照大御神」が「天神饒速日尊」と同一の神であることが判明する。天照は男神である。

 

『天照神社縁起』によると、
 垂仁天皇十六年(前十四年)、宮田村の笠木山(現宮田町の笠置山、四二五㍍)にニギハヤヒの神が降臨したという。
 初め笠木山山頂に祀られていたが、のち穂掛谷に、さらに明野(脇野)に遷座し、延慶元年(一三〇八年)ある人の夢にニギハヤヒがあらわれて「白鶴の住むところに廟を移すべし」と告げ、現在地の旧鶴田村に二羽の白鶴が飛来したので、明野からそこに遷したとも伝える。

『日本書紀 神武紀 戊午年 十有二月』に天照宮の祭神 櫛玉饒速日命 の記述があります。

 元伊勢(伊勢神宮は、東遷したらしい。)に関する『日本書紀 垂仁紀 二十五年』の記述に  磯宮(いそのみや) があり、 「天照大神の始めて天より降ります処なり。」とある。

 対馬の  島大国魂御子神社 の「鵠(白鶴)」の神紋にそっくりの神紋は、鞍手郡宮田町(現宮若市)の  天照神社 (祭神は、饒速日命)と同小竹町の  亀山神社 (太歳社、祭神は太歳神)に伝わっている。

 

 福永晋三先生のタイトル「万葉集の軌跡 - 倭歌が解き明かす古代史 鷦鷯(さざき)取らさね ― 蔽い隠された皇位継承戦争の 悲劇」の資料「 雀取らさね 」の11~16ページ女鳥王(めどりのみこ)雌鳥皇女(めとりのひめみこ)速総別王((はやぶさ)(わけの)皇子(みこ) の乱に関する地名の「伊勢神宮は、磯宮(元伊勢)の天照神社である。」の詳細説明があります。

『日本書紀』と『古事記』を整理した、女鳥王(雌鳥皇女)速総別王(隼別皇子)の逃亡経路は、

伊勢神宮(=磯光の 天照宮)に向かって馳せる。(書紀)

倉椅山(=鞍手町の  飯盛山 )を越える。(古事記)

伊勢の蔣代野(=飯塚市の  菰田 )で殺される。(書紀)

 

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