「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 宇美八幡宮 = 蚊田の里(神武東征の地)

 社伝「伝子孫書」によれば、神功皇后が三韓征伐からの帰途に 応神天皇を産んだ地で、「宇美」の地名も「産み」に 由来する
ものである。

 鞍手郡誌(昭和 9 年発行版)射手引神社社伝による神武天皇東征の地( 東征コース  j:蚊田の里)

 以下、『越境としての古代[6]』の「神武は、筑豊に東征した」より

 蚊田の里(粕屋郡宇美町):荒木の女志津姫皇子蚊田皇子を生み奉った地

 今日まで埋もれていた貴重な伝承である。ここは、神功皇后が三韓征伐から帰還した後、応神を出産された所としてあまりにも著名である。
 このことから、「宇美(産み)」の名がついたことが知られている。筑豊の各地を歩いているとき、神功と神武の事跡が重なることは早くから知悉していた。しかしながら、宇美の地に、神武の息子が生まれていた故事は「鞍手郡誌」を見出すまで気づかなかった。不明の至りである。

 この伝承が、神武の史実を伝えるなら、神功皇后の応神出産の故事にもう一つの意味が加わる。
 神功は神武の故事を知っていて、蚊田の里で皇子を生もうとしたことになる。神功の時代(四世紀後半)、神武はすでに倭国(邪馬台国)の初代大王として崇められていたはずだ。
 神功が神武の王子の出産地で、我が皇子を出産することは、倭国大王の王位継承を人民に知らしめるためではなかったかと推測される。

 数々の拙論で述べたとおり、神功は東鯷国から出て倭国(邪馬台国)を武力併合した女帝としてきた。その革命王朝が倭国の新しい支配者であることを示す重要なプロパガンダであったと思われる。蚊田皇子の伝承は現段階では他に見当たらない。
   (後略)

『日本書紀 神功紀』仲哀九年

「画像(神功皇后紀)」

*.故時人號其産處曰宇瀰

『古事記 仲哀天皇』神功皇后の新羅征討

「画像(仲哀記)」

*.號其御子生地謂宇美

 

 こちらが、「神功天皇の征西」のページに続く、穴門豊浦宮からの「  氣長足姫尊の豊国北伐 」のページです。

 「楽浪郡~倭奴国まで12,000里 ⇒ 帯方郡~邪馬台国まで12,000里に変わる」のページの『隋書』「俀国伝」に「東西五月行」の記述があります。

 『神功皇后の戦略(永井功著)』より主として筑豊関係の伝説から想定される「 神功皇后御行動図 」です。

 

※ 再発見 新発見 田川 川崎町は古代の京だった 神武・神功・應神の軌跡
 (令和元年十月二七日(日)、主催 豊の国古代史研究会 、於 川崎町勤労青少年ホーム )より

「写真」
「写真」
「絵」
神功皇后征西の軌跡
① 357年12月、粕屋町宇美八幡で誉田別皇子を出産。

 

 <所在地のGoogelマップ>