「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 島津 = 崗水門(をかのみなと)

※ 磐余彦尊(神武天皇)の第一次東征で岡水門に至り軍備を整えたは、「 邪馬臺国(邪馬台国)年表 」の
 114年 十一月です。

 福永晋三先生のタイトル『「天満倭」考-「やまと」の源流』の「 資料(平成16年如月) 」の9ページ
 島門駅、現在の遠賀町「島津」についての記述があります。

<以下、「天満倭」考より引用>

 『万葉集 304番』の「遠の朝廷」は明らかに「天神饒速日尊」の創始した「天満倭国」を指していよう。
そうであれば、人麻呂の認識では、「私のお仕えする大王にとって遠い時代の遠賀の朝廷」となるのでは
ないか。一種の掛詞と思われる。
 遠い時代の「遠賀の朝廷」と蟻通ふ歴史事実は、歌中の「嶋門」がそれを裏付けよう。「嶋戸物部
(筑前 遠賀郡・島門)」の島門である。
 島門は、平安・鎌倉の記録にも「島門駅」とあり、現在の遠賀町島津に比定されて いる。人麻呂の時代に
交通の要衝として人々の往来があったことは確かだろう。
 人麻呂は島門を実際に見ながら、天神降臨の神代を思ったのである。

 「遠賀の朝廷」すなわち「をかのみかど」を考えたら、『万葉集 1230番』の五句「壮鹿之須賣神」の
部分が明らかになった。
 吉田東伍の『大日本地名辞書』の「崗水門(ヲカノミナト)」の項の末尾に、次のような行文がある。
 按にこの歌の牡鹿(ヲカ)は諸家シカと訓みて、志賀海神に引きあてたり、然れとも牡鹿の牡の字の
添へてあるからには、ヲカと訓むべきにあらずや、即此岡の湊の神を祈る心なるべし。

 この「ヲカ(遠賀、崗)の皇神」もあるいは饒速日尊を指すかも知れない、と前回は記したが、今回は
断定に至った。
 その途端に、前の歌の「蟻通ふ嶋門」と「崗水門」がほぼ同一の場所だということが判明した。
響灘から天満倭(古遠賀湾)に入る場所は、天然の「細長い水門」なのである。ここを多数の大型船が
通過する時は、「蟻の行列」のように繋がって航行するしかない。
 だから、「蟻(の行列)のように船が往来する島門=遠賀の水門」と詠われたことは疑いようがない。
 古歌は歴史事実を的確に詠っている。(なお、「神功皇后紀を読む会」の上川敏美氏が「蟻通明神」を
追究されている。)

 『万葉集 304番』「蟻通ふ嶋門」/『万葉集 1230番』

萬葉集 三〇四
柿本朝臣人麻呂    
  下筑紫國時海路作歌二首
 大王之 遠乃朝庭跡 蟻通
 嶋門乎見者 神代之所念
 大君の 遠の朝廷(みかど)と あり
通ふ 島門を見れば 神代し思ほゆ
萬葉集 一二三〇
覊旅作
 千磐破 金之三埼乎 過鞆
 吾者不忘 壮鹿之須賣神
 ちはやぶる 鐘の岬を 過ぎぬと
も 我れは忘れじ 志賀の皇神(すめ
かみ)

 

*.当時は海に面した土地であろう地図(Flood Mapsの海面上昇:7m)と古遠賀湾(古代の遠賀川流域の
 推定図)は、  こちら 

 

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