「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 倭国(豊国)北伐考

・倭国北伐考(スメラミコトの豊国征服譚)(平成28年3月21日、久留米大学)講演
・倭国(豊国)北伐考(平成28年7月31日、於 ももち文化センター)講演

[筑紫の末羅(まつら)の縣の勝門比賣(かちどひめ)を滅ぼす]

 遠賀の地で物部氏を招集し、ニギタ津(鞍手町新北)を出航。筑紫の末羅の県(宗像大社・宮地獄神社周辺)の
勝門比売を滅ぼす。
 勝門比売は、釣川のほとりで殺された。

 宗像市が、『古事記 仲哀記』の筑紫の末羅(まつら)の縣であり、『魏志倭人伝』の末盧国である。田熊石畑
遺跡には、船着場跡と推定される場所があり、魏使一支國から船で海を千里渡り着いた場所である。

 しかし、『日本書紀 神功紀』では、同じ場所の記述が、「火前國松浦縣」となっている。この火國の松浦縣は、
勝門比賣が神功天皇に滅ぼされた後(神功天皇が水沼の皇都を建設した後)に、その一族が移された場所である。

 したがって、神功天皇の時代より120年前の『魏志倭人伝』の末盧國を肥前の松浦とした説は、成り立たない。
『魏志倭人伝』に記述されている一支國から海を千里渡るが、肥前の松浦では、五百里にも満たない。)

 

 

■ 『古事記』筑紫の末羅の縣と『万葉集』山上憶良の歌

氣長足姫尊の豊国北伐
 また筑紫の末羅(まつら)の縣玉嶌(た
ましま)
の里に到り坐して、其の河邊に御
(みおし)しし時、當に四月(うづき)の上
(はじめ)なりき。
 爾くして其の河中の磯に坐して御裳の
糸を拔き取り、飯粒(いいぼ)を以ちて餌
と爲し、其の河の年魚(あゆ)其の河の名
を小河と謂ふ。
 また其の磯の名を勝門比賣(かちどひめ)
と謂ふ
釣りき。
 故、四月の上旬の時、女人(おみな)
の糸を拔き、粒(いいぼ)を以ちて餌と爲
し、年魚(あゆ)を釣ること今に至るまで
絶えず。
(仲哀記)
帯日売 神の命の 鮎釣ると
御立しせりし 石を誰見き
(山上憶良)

 

伊都国へ  東南陸行五百里
「地図(魏使の陸行ルート)」
「写真(宗像市釣川)」

 

*.この『古事記』の割注に、石に「勝門比賣」と謂う名前が付いているか?勝門比賣は、どう考えても
 人の名でしょう?
  それを石と云っている。それとこの「鮎釣り」の年中行事の初りが神功皇后の鮎釣りにあった。神功皇后は、
 この石の上に立って鮎を釣った。その石の名前が勝門比賣という。最初はその意味が解らなかった。

  『萬葉集』に怖い歌が残っている。「帯日売(神功皇后)が鮎を釣ろうとお立ちになった石を誰がみたか、
 いや誰も見ていない
」という歌である。
  これは、8世紀の嘉麻の長官だった山上憶良が詠んだ歌です。昔の戦争は、酷かった。生きながらに捕まると
 手足を切り落とされて出血死のままに殺される。
  これを古語で「石ころにす」という。これが縮まって現代語の不吉な言葉の「殺す」の語源である。手足を
 切り落とされた勝門比賣の体の上に立って鮎を釣ったという故事である。
  だから、8世紀の歌人は、「その石を誰が見たか、いや、誰もみていない」と詠った。 肥前の松浦縣 
 (唐津市の玉島の里)に「神后御立石」という大きな石があるがこれは誰かが持ってきて置いた偽物であり、
 ありえない事である。
  これは、達磨人形の起源です。達磨の特徴は、まず手足が無い。目が無い。目が潰されるのは、ゆるやかな
 死刑である。急に目が見えなくなった人は、崖などから落ちる。子供の遊びに「目隠し鬼さん手のなる方へ」と
 いう起源は、「目潰し鬼さん手のなる方へ」と捕虜になって目を潰された者を勝った側の子供が、村の外に追い
 出す時に手を叩いて誘導した。
  そういった遊びが古代にあった。中世、戦国時代に負けた側の者に自決する時間を与えるのは、武士の情けで
 ある。古代は、生きて捕まったらどのような酷い殺され方になるか判らないので、覚悟を決めたら入水自殺する
 方が良い。これが、忍熊王の入水自殺の原因である。

*.糸島半島にも宮地獄神社がある。また、宇美八幡宮にある摂社にも宮地獄神社がある。福岡県神社誌にも
 残されているが、糸島半島の2、3社の宮地嶽神社の祭神が、すべて『古事記』に書いている勝門比賣である。
  福津市の 宮地獄神社 には、勝門比賣を滅ぼした神功皇后が祭神として祀られている。他に村大神、
 大神が祀られてる。
  宮地獄神社の北の方に勝浦という土地がある。豊国北伐で紹介した正勝勝速日天之忍穗耳命というように
 「」の字の名がついている。この神は天神である。その天神に関係する一大勢力が宮地獄神社の周辺にいた。
 それが勝一族で、卑弥呼の時代から120年後に神功皇后の手によって滅ぼされてしまった。
  この宗像の地こそが、失われた末盧国(末羅縣)であった。

  神功天皇がその後、久留米に都を建てた。火国に王朝を興したので、勝門比賣の一族が、また、反乱を起こす
 かもしれないから近くの土地へ強制的に移住させたか何かで、それが肥前の松浦縣である。
  多くの魏志倭人伝を解く学者達は、神功皇后を架空扱いであるからこの記述に戦後70年間気付かなかった。
 何故、『古事記』の筑紫の末羅縣が、『日本書紀』では、肥前の松浦縣に代わっているか注目した方がいなかった。
  福津市にある 年毛神社 、そこの宮司さんが永島家といい、その永島家の文書の中の記述で、「勝浦のところに
 万津浦」という地名が残されている。
  宗像を流れている川が、年魚(あゆ)を釣ったとある「釣川」であり、神功天皇が、勝門比賣を倒した場所である。

*.『万葉集 八番歌』は、「熟田津で船乗りをしようと満月の出を待っていると満月も出てきて、大潮の具合も
 丁度よくなった。さあ今漕ぎだそう
」と詠われた歌で、これは、神功天皇が何者かを倒すために満月の夜に
 出航する時の歌だという解釈をした。
  通説では、熟田津は愛媛県松山市となっている。しかし、松山市には「にぎた」という地名が残っていない。
  たがら、場所が違うと判断して探した結果が、鞍手町新北であった。この辺りが、古代海であった時に新北の
 ところに津があった。