「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 倭国(豊国)北伐考

・倭国北伐考(スメラミコトの豊国征服譚)(平成28年3月21日、久留米大学)講演
・倭国(豊国)北伐考(平成28年7月31日、於 ももち文化センター)講演

 

主宰 福永晋三
記紀万葉研究家
 「神功皇后紀を読む会」
於 ももち文化センター
平成二八年七月三一日(
倭国(豊国)北伐考

 

YouTube動画「平成28年7月31日(日)  倭国(豊国)北伐考 」はこちらからご覧になれます。
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 (やまと)国」は、豊国である。現在の豊前、豊後の国よりも大きな豊国が、嘗ての(やまと)王朝だという説です。
 この倭王朝が、たぶん持統天皇のあたりから現在の奈良県(大和)に約100年くらいかけて遷った。それが、
大和王朝である。

 豊前、豊後を中心に豊国=(やまと)王朝で起きた革命(クーデター)の紹介が、「倭国(豊国)北伐考」である。

■ 宋史 日本國(王年代紀) 神代

倭国(豊国)北伐考
 宋史 日本國(王年代紀)
其年代紀所記云、初主號天御
中主
。次曰天村雲尊、其
後皆以尊爲號。次天八重雲尊
、次天彌聞尊、次天忍勝尊、次贍
波尊、次萬魂尊、次利利魂尊、次
國狭槌尊、次角龔魂尊、次汲津丹
尊、次面垂見尊、次國常立尊、次
天鑑尊、次天萬尊、次沫名杵尊、
伊弉諾尊、次素戔烏尊、次
照大神尊
、次正哉吾勝勝速日天
押穂耳尊
、次天彦尊、次炎尊、次
彦瀲尊、凡二十三世、並都於筑
紫日向宮

 『宋史 日本國伝』は、中国の元の時代に書かれた北宋時代の記録です。その中に平安時代の東大寺の僧、
奝然(ちょうねん)が、我が国の『王年代紀』という書物を北宋の皇帝に献上した、その内容が残されている。
 最初は、「天御中主」で始まるが、『古事記』、『日本書紀』とは異なり、次が「天村雲尊」となっている。
大事な事は、「伊弉諾尊」の次の王が「素戔烏尊」であったと書いている。その次が、有名な「天照大神尊」で
ある。
 『記紀』の中では、天照大神尊は素戔烏尊の姉で、弟の素戔烏尊が乱暴をはたらくので根の堅洲國へ追い
やったとなっている。

 ところが、この『宋史 日本國伝』では違う。東大寺に伝わった『王年代紀』によれば、素戔烏尊が、天照
大神尊より先の王であり、天照大神尊が姉である訳がない。
 これくらい『記紀』というのは、作っている部分がある。
 次の「正哉吾勝速日天押穂耳尊」もさらにおかしい。『記紀』では、天照(天火明命)と瓊瓊杵尊の父と
なっている。

 最後のこの凡二十三世、並都 於筑紫日向宮の記述がすごい。「筑紫日向宮」を何とよむか? 「ちくしの
ひんがしのみや
」と読む。
 したがって、「筑紫の東の宮」は、豊国にある宮となる。この二十三世全ての都が、豊国だと言う可能性は、
少ないが!!
 初めに、① 素戔烏尊②正哉吾勝速日天押穂耳尊の神(王)が、豊国の南の方から現在の豊前の国、香春を
含む田川の辺りを征伐している話です。

■ 弥生時代の倭国地図

新北(熟田)津に 船乗りせむと 月待てば
 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
「福岡県Flood Maps」

 弥生時代の倭国地図 

 次の地図は、弥生時代には福岡県の中央に大きなリアス式の入江があった。これが、遠賀川流域の古遠賀湾で
ある。
 九州大学の助教授であった山崎光夫氏が、昭和31年に遠賀川流域をボーリング調査をして地下数メートルの所に
真水と海水が混ざった汽水域の地層があちらこちらにあるということで作られた地図と近い形の地図です。

 倭国地図の鞍手郡の文字のところの赤丸の辺りが、新北(にぎた)です。『万葉集』八番歌の

 新北(熟田)津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな

 「熟田津」を「新北津」と解釈した。糸島も島、志賀島も島です。宗像市の釣川の所も入江になっている。
また、行橋市の所も大きな入江になっている。
 古遠賀湾の所が『万葉集』、『古事記』、『日本書紀』で描かれた「近つ淡海」で、行橋の所の入江が
遠つ淡海」。つまり、弥生時代には、近江が鞍手・遠賀に、遠江が行橋にあったということです。

■ 宋史 日本國(王年代紀) 神武天皇 ~ 応神天皇

倭国(豊国)北伐考
 宋史 日本國(王年代紀)
彦瀲第四子號神武天皇、自
筑紫宮大和州橿原宮、即
位元年甲寅、當周僖王時也。
次綏靖天皇、次安寧天皇、次懿德
天皇、次孝昭天皇、次孝天皇、次
孝靈天皇、次孝元天皇、次開化天
皇、次崇神天皇、次垂仁天皇、次
景行天皇、次成務天皇。仲哀天
皇、國人言今爲鎮國香椎大神
神功天皇、開化天皇之曽孫女、
又謂息長足姫天皇、國人言
今爲太奈良良姫大神。次應神天皇、
甲辰歳、始於百濟中國文
、今號八蕃菩薩、有大臣
紀武内、年三百七歳。

 ③ 神武天皇が、筑紫の宮より入った「大和州橿原宮」の大和州は、豊国の(やまと)である。
 この『王年代紀』には、即位元年甲寅、當 周僖王時 也。とあり、既に紀元前667年の甲寅の年が
記されている。「周僖王時」とあるのは誤りで、恵王の時である。

 ⑤ 神功天皇とあり、皇后ではない。また、中国の冊封下に入った王の名前が出てこない。ここに倭五王は
出てこない。神功天皇の後になる。応神天皇とか仁徳天皇の名は出てくるが、倭五王の名は記されない。
 何故か、倭国豊国の天皇の記録だからである。中国南朝に遣いを送り冊封下に入った王であり、『日本書紀』
には書かれない。倭五王を応神天皇とか仁徳天皇に当てること自体無理である。
 別名の息長足姫天皇とあるのは、『風土記』の中に時々出てくる。天皇の扱いである。これも『日本書紀』の
改竄である。

 ⑤ 紀武内が、一番の曲者だった。『王年代紀』にも関わらず、何故か大臣の名が出てくる。應神天皇は、
今號 八蕃菩薩とあり、一番新しい八幡神となっている。「草薙の劔」を持っていたからと思われる。

■ 宋史 日本國(王年代紀) 用明天皇 ~ 持統天皇

倭国(豊国)北伐考
 宋史 日本國(王年代紀)
 次用明天皇、有子曰聖德太子
年三歳、聞十人語、同時解之、
七歳悟佛法于菩提寺、講聖鬘
、天雨曼陀羅華。當此土
隋開皇中、遣使泛海至中國
法華經。次崇峻天皇。次推古
天皇、欽明天皇之女也。次舒明天皇、
次皇極天皇。次孝德天皇、白雉四年、
律師道照求法至中國、從三藏
僧玄奘經律論、當此土唐永
徽四年也。次天豊財重日足姫天皇、
僧智通等入唐求大乗法相敎
顯慶三年。次天智天皇、次
武天皇
、次持總天皇。

 『宋史 日本國 王年代紀』に「聖徳太子」が出ている。現在では、実在でないとも言われるが。

 ⑥ 天武天皇の「壬申の乱」が、最後の豊国北伐です。大海人皇子が行った「吉野宮」を『日本書紀』等より
探した。
 吉野宮は、大分県下毛郡(現中津市)山国町吉野の若宮神社であると発見しました。天智天皇の「近江宮」は、
中間駅の西隣の御舘山である時に、大海人皇子の隠った「吉野宮」との基軸ができた。
 とすると「壬申の乱」の舞台は、豊国(倭国)であり、英彦山の南側から北上して古遠賀湾の近江宮を
襲撃した。豊国北伐である。