「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


[『古事記』の記述より狭井川(犀川)と三輪山(香春岳)が近い
  ⇒ 現御禊川は、香春岳一ノ岳(畝尾山)の南側を流れている]

 福永晋三先生の著書『倭歌が解き明かす古代史 真実の仁徳天皇』の 「Ⅱ 飛ぶ鳥の明日香』の中の「犀川の流路
 変遷
」の項に「 今川 は、以前は犀川と呼ばれていた。その犀川が赤村の昭和四十年代まで灰坂と呼ばれた辺りで
 ほぼ直角に北から東の方へ向きを変えています。
  向きを変える前の方向をそのまま延長すると御禊(みそぎ)川という細い川が北へ向かって流れ、香春町の南側を
 通って、金辺(きべ)と合流し、やがて彦山川に流れ込んでいます。
  何らかの理由で赤村付近を源流として行橋市方面に流れていた現在の下流部分(古事記で山代川/日本書記で
 山背川と読んでいる)が、犀川の源流を奪取した為に元の犀川の下流部(現御禊川)は源流と絶たれ、附近の丘陵
 地帯のみが水源となり現在のような細い川になった。」の記述があります。

  「狭井河の新比定」の項に『古事記 神武天皇』の記述により畝火山を香春一ノ岳と比定しているが、 河川争奪
 (成務天皇時代頃)が起きる前は、狭井河(犀川)は、香春一ノ岳の近くを流れていた。(現在の御禊川は、香春
 一ノ岳の南側を流れている。)

『古事記 神武天皇の美和山と狭井河』の記述

■ 后に選ばれた伊須氣余理比賣は、倭の狭井河の上に住む美和の 大物主神 の御子

■ 美和(三輪・御諸)山が、香春岳(一ノ岳=畝尾山)

 

『古事記 神武天皇の狭井河と畝火山』の歌

*.『当芸志美美命の反逆』の伊須氣余理比賣が御子達に危険を知らせる歌に
 ⇒ 狭井河が畝火山の近くを流れている。現在、香春一ノ岳(畝尾山)の南側を御禊川が、流れている。