「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 香春岳 = 倭三山(やまとさんざん)、美和(三輪・御諸)山 ⇒ 畝尾山・耳成山・天香山

[『古事記』の畝尾山/『魏志倭人伝』の耳成山の記述]

『古事記 伊邪那岐命と伊邪那美命 火神被殺』/『魏志倭人伝』の副官名の記述

古事記
 伊邪那岐命と伊邪那美命 火神被殺
 故爾伊邪那岐命詔之「愛我那邇妹
命乎那邇二字以音、下效此」謂「易
子之一木乎」乃匍匐御枕方、匍匐御
足方而哭時、於御淚所成神、坐香山
畝尾木本、名泣澤女神。
 故ここに伊邪那岐命詔りたまひし
く、「愛しき我が汝妹の命を、子の
一つ木に易へつるかも。」と謂りた
まひて、すなはち御枕方に匍匐ひて、
御足方に匍匐ひて哭きし時、御涙に
成れる神は、香山畝尾の木の本に
まして、泣澤女神と名づく。
魏志倭人伝
 南至投馬國水行二十日官曰彌彌副
彌彌那利可五萬餘戸
 南のかた投馬国に至る、水行二十
日。官を弥弥と曰ひ、副を弥弥那利
(みみなり)
と曰ふ。五万余戸可り

*.「香山の畝尾」とある

*.「副は、弥弥那利(ミミナリ)」とある

 

 <以下、『 天香具山争奪戦 』4~5ページより引用>

 注意すべきは、神武の祭った神々である。中でもイツノカグツチは火の神であるから、古事記の迦具土・日本書紀
神代の軻遇突智であることは間違いない。カグツチもまた天香山の神々の一であろう。
 さらに、古事記の迦具土の前後には香山の畝尾木本に坐す哭澤女神が存在する。この「香山の畝尾」から
畝傍山」が派生したのなら、香春三の岳が本来の天香山であり、畝の尾に当たる一ノ岳が畝傍山と称されたことに
なる。
 私はこの位置関係から 橿原宮 を香春一ノ岳の東南麓の高野に比定したのである。そこには鶴岡八幡宮が鎮座し、
柳井秀清氏によれば、さらにその以前に古い宮が鎮座していたとの由である。
 この続きには、驚愕の推測が働く。何と、 神武の陵 が香春に現存する。記に「御陵は畝火山の北方白檮の尾上に
在り
」と記され、紀に「畝傍山東北陵に葬りまつる」とある陵こそ、地元の方々が千数百年の長きにわたって守って
来られた「香春のおおきん(大王)さん」である可能性が最も高い。
 記述どおりの位置にあり、大王の名が示されていないことにむしろ最大の根拠があると、私には思われてならない。
初めて明記する。

 

 <以下、『邪馬臺国の位置と年表』より引用>

十 女王国に至る
 奴国を主線行程に復し得て、いよいよ女王国に向かう。東行して不弥国に至るまで百里。官を多模と曰ひ、副を
卑奴母離と曰ふ。千余家有り。
 南のかた邪馬台国に至る、女王の都する所にして、水行十日陸行一月。官に伊支馬有り。次を弥馬升と曰ひ、次を
弥馬獲支と曰ひ、次を奴佳鞮と曰ふ。七万余戸可り。
 南のかた投馬国に至る、水行二十日。官を弥弥と曰ひ、副を弥弥那利と曰ふ。五万余戸可り。
 女王国より以北は、其の戸数・道里、得て略載すべきも、其の余の旁国は遠絶にして、得て詳らかにすべからず。
    (中略)
 郡より女王国に至るまで、万二千余里