「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
香春岳 = 倭三山、美和(三輪・御諸)山 ⇒ 畝尾山・耳成山・天香山
[『古事記』の畝尾山/『魏志倭人伝』の耳成山の記述]
『古事記 伊邪那岐命と伊邪那美命 火神被殺』/『魏志倭人伝』の副官名の記述
*.「香山の畝尾」とある
*.「副は、弥弥那利(ミミナリ)」とある
<以下、『 天香具山争奪戦 』4~5ページより引用>
注意すべきは、神武の祭った神々である。中でもイツノカグツチは火の神であるから、古事記の迦具土・日本書紀
神代の軻遇突智であることは間違いない。カグツチもまた天香山の神々の一であろう。
さらに、古事記の迦具土の前後には「香山の畝尾木本に坐す哭澤女神」が存在する。この「香山の畝尾」から
「畝傍山」が派生したのなら、香春三の岳が本来の天香山であり、畝の尾に当たる一ノ岳が畝傍山と称されたことに
なる。
私はこの位置関係から 橿原宮 を香春一ノ岳の東南麓の高野に比定したのである。そこには鶴岡八幡宮が鎮座し、
柳井秀清氏によれば、さらにその以前に古い宮が鎮座していたとの由である。
この続きには、驚愕の推測が働く。何と、 神武の陵 が香春に現存する。記に「御陵は畝火山の北方白檮の尾上に
在り」と記され、紀に「畝傍山東北陵に葬りまつる」とある陵こそ、地元の方々が千数百年の長きにわたって守って
来られた「香春のおおきん(大王)さん」である可能性が最も高い。
記述どおりの位置にあり、大王の名が示されていないことにむしろ最大の根拠があると、私には思われてならない。
初めて明記する。
<以下、『邪馬臺国の位置と年表』より引用>
十 女王国に至る
奴国を主線行程に復し得て、いよいよ女王国に向かう。東行して不弥国に至るまで百里。官を多模と曰ひ、副を
卑奴母離と曰ふ。千余家有り。
南のかた邪馬台国に至る、女王の都する所にして、水行十日陸行一月。官に伊支馬有り。次を弥馬升と曰ひ、次を
弥馬獲支と曰ひ、次を奴佳鞮と曰ふ。七万余戸可り。
南のかた投馬国に至る、水行二十日。官を弥弥と曰ひ、副を弥弥那利と曰ふ。五万余戸可り。
女王国より以北は、其の戸数・道里、得て略載すべきも、其の余の旁国は遠絶にして、得て詳らかにすべからず。
(中略)
郡より女王国に至るまで、万二千余里