「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


[神武天皇の没年(干支一運の60年分が在位年数と享年に加算されている)]

 2020年版 神武東征(陸)のスライド内容に更新

第二次神武東征 
神武崩御
 七十有六年一十有六年、136年)の春三月の甲午朔甲辰に、天皇橿原宮に崩ず。時に年一百廿七六十七歳。
一三六年 春三月、神武崩御。享年六十七歳と推測される。
 夏四月、手研耳命即位。皇輿(すめらみこと)(めぐり)(いでま)す。」二代手研耳命大王邪馬台国旧倭奴国)を巡幸する。「因りて腋上(わきがみ)(ふく)(まの)(をか)に登りて、國の(かたち)(めぐ)らし望みて曰く、『(あな)にや、國を()つること。(うつ)()綿()()()き國と(いへど)も、猶ほ蜻蛉(あきつ)()(なめ)の如きかな。』と。是に由りて、始めて(あき)()(しま)の號有り。」豊秋津島倭の号は、この時に始まったと紀は記す。
 明年(一三七年)の秋九月の乙卯(きのとう)丙寅(ひのえとら)に畝傍山東北陵に(はぶ)りまつる。
 ここには、香春町の人々が代々大切にしてこられた「おほきんさん(大王様)」と呼ぶ弥生時代の円墳がある。

日本書紀 神武紀』の記述では、
 「七十有六年の春三月の甲辰に、天皇、橿原宮に崩りましぬ。時に年一百二十七歳。」とあるので、干支は、丙子に当たる。
 元年の辛酉は、52歳。東征開始の太歳甲寅は、45歳となる。干支一運の60年分の在位年数と享年を除いた丙子の 没年は、享年67歳になる。
 手研耳命が殺される。太歳己卯。神渟名川耳尊(綏靖天皇)の即位は、太歳庚辰。 神武天皇崩御から神渟名川耳尊の即位まで、3年間あり、神武崩御の後、手研耳命が即位し3年間王位にあった。

したがって『日本書紀 神武紀』の記述の

三十有一年の夏四月の乙酉の朔に、皇輿巡り幸す。
     ・
     ・
七十有六年の春三月の甲辰に、天皇、橿原宮に崩りましぬ。時に年一百二十七歳。

「邪馬台国年表」は、下記のように変わる。

136年  春三月 神武天皇崩御。手研耳命即位。
   夏四月 手研耳命大王は、邪馬台国(旧倭奴国)を巡幸する。

 福永晋三先生のタイトル「邪馬臺国の位置と年表」の資料「邪馬臺国の位置と年表改訂版」の 8~9ページに 神武の没年 についての記述があります。

 

 2020年版 神武東征(漆)のスライド内容も追加

神武崩御と邪馬臺國年表
手研(たぎし)(みみ)、)二の弟を害せむことを図る。時に、太歳己卯(つちのとう)
 冬十一月、(かむ)八井(やゐ)(みみ)、則ち手脚戦慄して、矢を放つこと(あた)はず。時に(かむ)渟名(ぬな)川耳(かはみみ)、其の兄の持つ所の弓矢を()き取りて、手研耳命を射る。一発に胸に中る。再発に背に中て、遂に殺しつ。
 大王(天皇)暗殺の記録である。この己卯に、日本古典文学大系は次の注を付している。
 「神武紀では神武天皇の崩御は七十六年で、その干支は丙子(ひのえね)に当っているから、ここまでに満三年を経過していることになる。」
 手研耳命三年間大王位にあったことになるが、これらを勘案すれば、神武崩御と手研耳命即位が丙子であることが分かる。
神武崩御と邪馬臺國年表
 己卯(つちのとう)は、すでに西暦一三九年に当るとしたので、必然的に、神武崩御・手研(たぎし)(みみ)即位年の丙子(ひのえね)は三年前の西暦一三六年に当るのである。すると、神武の享年は六十七歳となる。
 神武紀の記述では、
「七十有六年の春三月、天皇、橿原宮に崩ず。時に年一百二十七歳。」とあり、干支一運の六十年分が、在位年数と享年に加算されていたことが判明した。
 この一点だけでも、古田仮説「二倍年暦」は当たらない。
七十有六年(一十有六年(西暦136年))の春三月の甲午(きのえうま)甲辰(きのえたつ)に、天皇橿原宮に崩ず。時に年一百廿七(六十七)歳。
※「日本書紀暦日原典」によれば、136年三月の儀鳳暦朔干支は「甲寅(きのえとら)」である。
一三六 春三月神武崩御。享年六十七と推測される。