「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 神功天皇・征西(気比の宮~穴門豊浦宮)

 「都」が「ツ」と読まれる例

福永晋三先生のタイトル『魏志倭人伝と記紀の史実-「伊都能知和岐知和岐弖」考』の資料 「 魏志倭人伝と記紀の史実 」の
 9~10ページより「」が「」と読まれる例の抜粋です。

 すでに定説と化した倭人伝の中心国の一、「 伊都 」は三世紀当時にどう読まれたか。もはや「呉音」で発音された
ことは明らかである。断じて、六世紀末以後の「漢音」で読まれたわけはない。
 私はすでに随所でこのことを述べてきた。まず、「都」字から再確認する。左は、角川新字源の「都」字の見出しの
部分である。呉音がで漢音がである。
 新字源の漢字音の歴史にあったように、漢音を正規の字音と定める命令が延暦十二年(七九三)に発せられ、
今日では、一つ一つの漢字についていえば漢音でよまれる字が多くなっているが、現代日本語にも「都合(つごう)」、
の「都度(つど)」など語に、呉音が残されている。
 したがって、倭人伝の「伊都」は「イツ」であって、この段階で、新井白石以来、「伊都」を「イト」と読んで
筑前国怡土郡に当ててきた古代史学は全て成立しないおそれがある。
 たとえ、わが国で漢音が正規の字音になったからといって、「伊都」が「イト」と変わって遺称地となった可能性は
極めて少ない。

 例えば、古事記に現れる「都奴賀」は「ツヌガ」と読み、今日の「敦賀(つるが)」の地であることはよく知られて
いる。山梨県の都留市も正倉院文書に残された「都留郡」の中心地であり、「鶴郡」とも書かれるから、今も昔も
ツル」と読む。
 他にも、古代から現代に伝わる地名に、都宇郡(岡山県)、都家郷(埼玉県)、都志郷(兵庫県)、都筑郡(神奈川
県)、都梨郷(岡山県)、都濃郡(山口県)、都麻郷(島根県)などがあり、すべて「都」字が「ツ」と読まれている。

万葉仮名「都」

 このように、記紀や万葉などの呉音で書かれた地名の多くは、すべて呉音のまま伝わっていると言っても過言ではない。
 一方、大阪府八尾市の「阿都(アト)」の例も確かにある。日本書紀に「阿斗」と出てくる地で、用明紀に「阿都」が
出てくる。
 ただ、日本書紀に出現する万葉仮名は、古事記の万葉仮名が全て呉音であるのに対し、漢音が一部に混在する。この漢音
万葉仮名がいつ、どの巻に混入したかについては今後詳細な研究が必要であろう。
 日本書紀の最終編纂が、どうやら延暦十二年(七九三)以後であることは大体見えてきたようである。ただ、漢音が
「日本が隋・唐の政府と交通し、外交使節や留学生を派遣した結果、当時の首都長安および洛陽において直接に学んだ中国語の
発音」であるとするとき、「都」(ト)は実に微妙な音である。
 なぜなら、『隋書』俀国伝において、「都斯麻」の表記があり、「 対馬 (つしま)」を表していることが明らかだからである。
 少なくとも、大業四年(六〇八)には隋の首都においても、「都」字は「ツ」音であった。

 俀國、在百濟新羅東南、水陸三千里
、於大海之中依山島而居
。魏時、譯通
中國。三十餘國、皆自稱王。夷人不知
里數、但計以日。其國境東西五月行、
南北三月行、各至於海。其地勢東高西
下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者
也。古云、去樂浪郡境及帶方郡並一萬
二千里、在會稽之東、與儋耳相近

 漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。安
帝時、又遣使朝貢、謂之俀奴國。桓靈
之間、其國大亂、遞相攻伐、歷年無主
。有女子名卑彌呼、能以鬼道惑衆、於
是國人共立爲王。有男弟、佐卑彌理國
。其王有侍婢千人、罕有見其面者、唯
有男子二人給王飲食、通傳言語。其王
有宮室樓觀、城柵皆持兵守衞、爲法甚
嚴。自魏至于齊梁代、與中國相通。
隋書 俀國

 

  (中略)

 大業三年、其王多利思比孤遣使朝貢
。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法
、故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。」
其國書曰「日出處天子致書日沒處天子
無恙」云云。帝覽之不悅、謂鴻臚卿曰

「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」

 明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度
百濟、行至竹島、南望𨈭羅國、經都斯
國、迥在大海中。又東至一支國、又
至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華
夏、以為夷洲、疑不能明也。又經十餘
國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸
於倭。
隋書 俀國

*.大業四年の「都斯麻(つしま)」の記述

 

『隋書』「俀国伝」の前半部の訓読 
                   <『東西五月行の成立(五世紀後半、倭武の常陸巡幸の頃)』より抜粋>

 『漢書』に記された「東鯷国」を追究して、今日まで類を見ない「倭国史」を描出した。この「倭国史」が決して
荒唐無稽のものでないことを知っていただくため、最後に、『隋書』「「俀国伝」の前半部の訓読を掲げる。本稿と
照合していただきたい。筆者は、下記の赤字部を詳述したに過ぎない。

 俀国は百済・新羅の東南に在り。水陸
三千里。大海の中に於て山島に依りて居
す。魏の時、訳の中国に通ずるもの、三
十余国。皆自ら王と称す。夷人、里数を
知らず、但だ計るに、日を以てす。
 其(俀国)の国境、東西五月行、南北
三月行、各々海に至る。其の地勢、東高
く、西下り、邪靡(やま)(たい)に都す。則ち、魏志
に謂わゆる邪馬臺なる者なり。
 古に云う。楽浪郡境及び帯方郡を去る
こと、並びに一万二千里。
会稽の東に在
り、儋耳と相近し、と。
 漢の光武の時、使を遣わして入朝し、
自ら大夫と称す。安帝の時、又使を遣わ
して朝貢す。之を俀奴国と謂う。
 桓霊の間、其の国大いに乱れ、(たが)いに
相攻伐して歴年主無し。 女子有り、卑弥
呼と名づく。鬼道を以て衆を惑わす。
 是に於て、国人共立して王と為す。男
弟有りて卑弥を(たす)け、国を(おさ)む。
 其の王、侍婢千人有り、(まれ)に其の面を
見る有る者、唯だ男子二人有り。王に飲
食を給し、通じて言語を其の王に伝う。
 宮室・楼観・城柵有り。皆兵を持して
守衛し、法を為すこと、甚だ厳なり。
 魏より斉・梁代に至り、中国と相通ず。

 開皇二十年(六○○)、俀王、姓は阿毎(あま)、字は多利思北孤、阿輩難弥と号す。使を遣
わして闕に(いた)る。
 上、所司をして其の風俗を()わしむ。使
者言う。俀王天を以て兄と為し、日を以て
弟と為す。
 天未だ明けざる時、出でて政を聴くに跏
趺して坐す。日出ずれば便(すなわち)理務を(とど)め、
云う「我が弟に委ねん」と。
 高祖曰く「此れ、(はなは)だ義理無し」と。是
に於て訓令して之を改めしむ。