「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 邪馬臺(やまと)國 = ( やまと)国 年表(豊国史)

[107年(永初元年) 倭面上国王帥升、後漢の安帝に生口(食肉用奴隷)一六〇人を献ず]

 後漢の安帝の永初元年は、西暦107年である。 後の范曄後漢書では「倭國王 師升」と書かれるが、『翰苑』に
残された後漢書(謝承後漢書)では、「倭面上國王 師升」と書かれている。

 

翰苑(かんえん)』(謝承後漢書)

一〇七
  倭面上国王帥升等、後漢の安帝に
  生口(奴隷)一六〇人を献ず。
卑彌娥惑翻叶群情臺與幼齒方
諧衆望
 後漢書曰安帝永初元年、有倭面上
國王師升
至。
 桓・遷之間、倭國大乱、更相攻伐、
歴年無主
 有一女子名曰卑弥呼、死更立男王、
國中不服、更相誅 殺、復立卑弥呼
宗女臺與、年 十三爲王、國中遂定。
 其國官有 伊支馬、次曰弥馬升、
次曰弥馬 獲、次曰奴佳鞮之也。
(翰苑)
(謝承後漢書)

*.ここの後漢書曰 ⇒「謝承後漢書」である。

 

『翰苑(かんえん)』の漢書地志/後漢書

一〇七
  倭王帥升等、後漢の安帝に生口
  (奴隷)一六〇人を献ず。
中元之際紫綬之榮
 漢書地志曰
夫餘樂浪海中有倿人、分爲百餘
 國、以歳時獻見。」

 後漢書
「光武中元年二、倭國奉 貢朝賀、
 使人自稱大夫。光武賜 以印綬。
 安帝初元年倿王師升等
 獻主口百六十。」
(翰苑)
※ 大夫( 代の官職)

*.倿人/倿王師升・・・の「」は、「」の誤植