「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 韓半島~倭国(豊国)までの里程

[樂浪郡徼の位置:楽浪式土器伝播図より『謝承後漢書』(翰苑)に記された
 一万二千里は、香春までの距離]

樂浪郡徼の位置

樂浪郡徼の位置

 楽浪郡治衛氏朝鮮国の都「王険」改め「朝鮮県」を郡治とし、現在の
平壌市付近の大同江北岸(現在の平壌市街)に郡治が所在したと考えられ
ている。

 平壌市街一帯には楽浪漢墓と呼ばれる当時の墳墓が残り、その数は2,000
以上と言われる。
 楽浪漢墓の多くは郡の下級役人たちのもので、墓制は前期の木槨墓から
後期の塼室墓に移行している。
 その多くは植民地時代に日本の考古学者によって発掘された。腐朽消滅
していない漢代の木槨墓が初めて学術的に発掘され、大型の木馬など、大量
の木製品、漆器が出土した。特に年号・製造部署が刻された漆器が重要で、
前漢始元2年から後漢永平14年に至る長期間の遺品が出土している。殆どが
四川省で制作された漆器である。その中で、南井里第116号古墳から出土した
「漆絵人物画像文筺」は特に有名である。他にも銅鏡や官印、玉器、土器、
漢銭などが出土した  。

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 日本の壱岐市原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代出雲
土器が出土しており、これは、楽浪郡と壱岐出雲の間の交流を示す。
 姫原西遺跡西谷墳墓群がある出雲平野には、強大な国があったと思われ、
出雲が楽浪郡と深い関係を持ちながら、山陰を支配していた可能性がある。

 

楽浪式土器伝播図(倭国)

楽浪式土器伝播図(倭国)
図「原の辻貿易(弥生中期後半の交易活動)」

 

『翰苑』 謝承後漢書では、楽浪郡 ~ 倭奴国までが、12,000里

倭奴国と楽浪郡の里程
倭國
憑山負海鎭馬臺以馬臺以建都
 後漢書曰、倭在朝(鮮)東南大海
中、依山島居、凡百餘國。自武帝滅
朝鮮、使譯通漢於者州餘國、稱王、
其大倭王治邦臺
 樂浪郡儌、去其國万二千里。甚地
大較在會稽東。与朱雀・儋耳相近。
(謝承後漢書)
樂浪郡→樂浪郡    (隋書俀國傳)
「范曄後漢書」(さかい、とりで
※ 樂浪郡徼は、樂浪郡治の謂いか

樂浪郡  (謝承後漢書)  →  樂浪郡  (隋書俀國傳)

樂浪郡  (范曄後漢書)  ⇒ (さかい、とりで)

 樂浪 郡徼 は、樂浪 郡治 の謂いか

 

 後漢書曰とあるのは、『范曄後漢書』でなく、『謝承後漢書』である。陳寿の書いた『三国志』より前に書かれた
 後漢書に、樂浪郡儌から倭国までが、一万二千里とある。
  楽浪式土器の伝播図に示されている通り、壱岐の原の辻を経由して北部九州に伝わっている。素戔鳥尊の一族が
 追われた先の出雲国(根の堅洲國)への伝播は破線で示している。

  西暦57年に後漢の光武帝に遣使し、金印を受けたのは、倭奴(いぬ)国の王であり、前14年に饒速日尊が降臨して
 建てた国の王である。
  『旧事本紀』では饒速日尊の子に天香語山命がいる。金印を受けた倭奴国王は、天香語山命であろう。名前から
 天香山に関係のあると思われる。
  したがって、倭奴国の都は天下山付近にあった推察される。

  後漢の光帝に遣使した時には、後漢から倭奴国へ使者は来ていない。一万二千里という距離は、倭人が樂浪郡から
 天香山付近(香春)までを測った距離である。
  最初に倭国(邪馬台国)へ来たのは、西暦240年の魏使である。

 

翰苑(かんえん)』に載る後漢書(謝承後漢書)

一〇七
  倭王帥升等、後漢の安帝に生口
  (奴隷)一六〇人を献ず。
卑彌娥惑翻叶群情臺與幼齒方
諧衆望
 後漢書曰安帝永初元年、有倭面上
國王師升
至。
 桓・遷之間、倭國大乱、更相攻伐、
歴年無主
 有一女子名曰卑弥呼、死更立男王、
國中不服、更相誅 殺、復立卑弥呼
宗女臺與、年 十三爲王、國中遂定。
 其國官有 伊支馬、次曰弥馬升、
次曰弥馬 獲、次曰奴佳鞮之也。
(翰苑)
(謝承後漢書)