「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 三ツ塚古墳 = 蘇我蝦夷・入鹿の墓、双の墓(ならびのはか)

 聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた
(平成29年6月3日 みやこ町歴史民俗博物館。4 日 嘉麻市NICO)より

 己酉、蘇我臣蝦夷等臨誅、悉燒天皇記・國記・珍寶。 船史惠尺、卽疾取所燒國記而奉獻中大兄。是日、蘇我臣蝦夷及鞍作屍、許葬於墓、復許哭泣。

 皇極天皇から蘇我臣蝦夷、入鹿も墓に葬る事が許される。その二人の墓を双の墓(ならびのはか)に造ったと書いてある。
 馬ヶ岳城のすぐ南側の場所、みやこ町に三ツ塚古墳という遺跡がある。 Googleマップの航空写真でこのような形をしている遺跡が遺されている。ところがこの場所から土を採る為に三つ並んでいたが、既に二基がもう壊されている。(掘られている。)

 みやこ町の学芸員さんが、2017年1月29日時点で辛うじて遺されている一基の発掘調査を行った。その時の写真が、下まで掘り進めていった状態です。大きな石壁があって、天井があった。奥にも石壁があった石室古墳だったらしいですが、その石がきれいに失くなっている。
 学芸員さんの説明で溝だけが遺されているが、その巨石を引きずった跡が無い。どのようにしてその巨石を運び出したのだろるかとその調査に立ち会ったメンバーで話し合った。
 石を引きずった跡が無いというのは、その場所で、石を砕いて細かくして持ち出したとしか考えられない。

 今回、その学芸員さんが、みやこ町歴史民俗博物館の便りの中で「三ツ塚古墳の盗掘は、石材採取が目的で装飾品が目的ではない。」と書かれている。私も石その物の盗掘が目的と思っていた。
 石室古墳というのは、止事無き人の墓です。例え殺された人の墓(蘇我氏の墓と考えても)としても庶民が勝手に壊せるかという問題がある。
 だから、これを壊しても良いと許可を出したのもそれ以上の権力を持っている者であろうと考えたときに、蘇我入鹿を殺した中大兄皇子(後の天智天皇)ではないだろうか?

 二人の墓については皇極元年に「是歲、(中略)又盡發舉國之民、幷百八十部曲、預造雙墓於今來。一曰大陵、爲大臣墓。一曰小陵、爲入鹿臣墓。」とある。
 生前に「双の墓」を築いたとあり、みやこ町の三ツ塚古墳がどうやらそれらしい。三基中、一基しか残っていないが、石室古墳である。だが巨大な石壁が壊されてどこかに運び去られたようだ。発掘に当たったみやこ町の調査員の方も、石材目的の盗掘であろう
と推測されている。
 私は、中大兄皇子(天智天皇)が「宮の東の山に垣(大坂山の 呉中平雪穴 )を造」った時、その石材としたのではないかと推測している。

 

「Google Earth」
「発掘現場の写真」

今は、1号墳の跡しか残されていない。

「測量図」

 右側の1号墳と真ん中の2号墳が
全く同じ大きさであるが、玄室は、
1号墳の方がやや大きい。
 1号墳が蝦夷、2号墳が入鹿の
墓であったようである。
「記紀はなぜ鷹羽の神々を隠したか
‐壬申之大乱との関わり‐」
(令和元年12月8日)より

 

<所在地のGoogelマップ>