「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた(平成29年6月3日 みやこ町歴史民俗博物館。4 日 嘉麻市NICO)の講演より
■ 天皇家と蘇我氏の歴史⑦ 舒明天皇・皇極天皇
● 息長足日廣額天皇(舒明天皇 在位六二九 ~ 六四一)紀も即位前紀から始まる。
息長足日廣額天皇、渟中倉太珠敷天皇孫、彥人大兄皇子之子也。母曰糠手姬皇女。豐御食炊屋姬天皇
廿九年、皇太子豐聰耳尊薨而未立皇太子、以卅六年三月天皇崩。
九月、葬禮畢之、嗣位未定。當是時、蘇我蝦夷臣、爲大臣、獨欲定嗣位。
蘇我蝦夷が大臣となり、嗣位(ひつぎのくらい)を定めようと欲す。以下、年表でまとめる。
元年(六二九)一月四日、即位。
二年(六三〇)十月十二日、飛鳥岡本宮(赤村岡本 光明八幡社 )に遷る。
三年(六三一)三月一日、 百済の義慈王が王子の豊章を質として送る。
四年(六三二)十月四日、唐の高表仁が難波津に到着。
五年(六三三)一月二十六日、高表仁が唐に戻る。
「與王子爭禮、不宣朝命而還」(『旧唐書』)は倭国本朝の事件。
八年(六三六)六月、岡本宮が火災に遭う。田中宮( 岩亀八幡神社 )に遷る。
この年、旱魃・飢饉が起こる。
十年(六三八)この年、福亮僧正が法起寺金堂( 上坂廃寺 )を建立する。
(『法起寺塔露盤銘』)。この法起寺は、蘇我蝦夷?の建立か。
十一年(六三九)七月、詔して、百済川の辺に大宮と大寺(所在不明)を造らせる。
十二月、伊予温泉(宮若市 千石峡 )に行幸。百済大寺(所在不明)の九重塔が建つ。
十二年(六四〇)四月、伊予から帰り、厩坂宮(所在不明)に滞在する。
十月、百済宮に遷る。
十三年(六四一)十月九日、百済宮に崩御。
丙午、殯於宮北、是謂百濟大殯。是時、東宮開別皇子、年十六而誄之。
東宮開別皇子すなわちのちの天智が登場。
● 天豐財重日足姬天皇(皇極天皇 在位六四二 ~ 六四五)紀も即位前紀から始まる。
天豐財重日重日、此云伊柯之比。足姬天皇、渟中倉太珠敷天皇曾孫、押坂彥人大兄皇子孫、茅渟王女也。
母曰吉備姬王。天皇順考古道、而爲政也。息長足日廣額天皇二年、立爲皇后。十三年十月、息長足
日廣額天皇崩。
元年春正月丁巳朔辛未、皇后卽天皇位。以蘇我臣蝦夷爲大臣如故。大臣兒入鹿更名鞍作。自執國政。
威勝於父。
蘇我蝦夷が大臣のままで、入鹿が国政を執り、父よりも勢いが勝っていた。
元年(六四二)一月十五日、即位。
一月二十九日、安曇比羅夫が百済の弔使を伴って帰国。
四月八日、追放された百済の王族、翹岐が従者を伴い来朝。
十二月二十一日、小墾田宮(所在不明)に遷る。
二年(六四三)四月二十八日、更に飛鳥板蓋宮(
福原長者原遺跡 か)に遷る。
十一月一日、蘇我入鹿が山背大兄王を攻め、同月十一日に王は自害。
三年(六四四)十一月、蝦夷・入鹿、家を甘樫丘(みやこ町と行橋市の境の
馬ヶ岳、中世の城跡 の基か)に並べ建つ。
四年(六四五)六月十二日、中大兄皇子らが飛鳥板蓋宮大極殿内で蘇我入鹿を討ち、翌日、入鹿の父の蘇我蝦夷が自害する。乙巳の変。
於是、中大兄、戒衞門府一時倶鏁十二通門、勿使往來、(中略)
佐伯連子麻呂・稚犬養連網田、斬入鹿臣。
※ 大極殿十二門には、飛鳥板蓋宮での入鹿誅伐のとき、十二門を守り、かつ誅伐に参加した氏族の功を永久に記念するために氏族名を
付けたとの説がある。
佐伯連子麻呂・稚犬養連網田・海犬養連勝麻呂三人の氏族名は、十二門中に藻壁門(佐伯)・皇嘉門(若犬養)・安嘉門(海犬養)として
遺されている。
己酉、蘇我臣蝦夷等臨誅、悉燒天皇記・國記・珍寶。
船史惠尺、卽疾取所燒國記而奉獻中大兄。
是日、蘇我臣蝦夷及鞍作屍、許葬於墓、復許哭泣。
皇極天皇から蘇我臣蝦夷、入鹿も墓の葬る事が許される。その二人の墓の
双の墓(ならびのはか)を造ったと書いてある。馬ヶ岳城のすぐ南側の場所、
みやこ町に 三ツ塚古墳 という遺跡がある。
Googleマップの航空写真で
このような形をしている遺跡が遺されている。
推古期に録された「天皇記・國記」が焼かれている。「国造記」は無事だった
のか、現存する『先代旧事本紀』に残されている。
また、蝦夷と入鹿は墓に葬ることを許されている。二人の墓は皇極元年に「是歲、(中略)又盡發舉國之民、幷百八十部曲、
預造雙墓於今來。一曰大陵、爲大臣墓。一曰小陵、爲入鹿臣墓。」とある。生前に「双の墓」を築いたとあり、みやこ町の
三ツ塚古墳がどうやらそれらしい。三基中、一基しか残っていないが、石室古墳である。だが巨大な石壁が壊されてどこかに運び去られた
ようだ。発掘に当たったみやこ町の調査員の方も、石材目的の盗掘であろうと推測されている。
私は、中大兄皇子(天智天皇)が「宮の東の山に垣(大坂山の 呉中平雪穴 )を造」った時、その石材としたのではないかと推測している。
六月十四日、皇極天皇は同母弟の軽皇子(後の孝徳天皇)に皇位を譲る。