「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 太宰府政庁跡 = 倭国本朝の天子、阿毎多利思比孤の倭京

  (やまと)王朝の歴史とその遺構(平成29年3月19日、於 福岡県立大学)講演より

 西暦618年の年号「倭京」とある場所は、太宰府である。この時の倭京は、筑紫側(倭国本朝)である。我国で初めての条坊(じょうぼう)制を備えた都が造られたのであろう。

倭国本朝の倭京
「和+京」「縄」
地図「大宰府」
「条坊図」

  白村江の戦いと壬申の乱(平成29年7月28日、於 ももち文化センター)講演より

 大宰府は、前畑遺跡、大野城、水城というこれだけの羅城(らじょう)に囲まれている(ブラタモリより引用)

「画像(大宰府の羅城)」

 「大宰府政庁」という言い方がおかしい。どう考えても都の跡です。

 小郡市の「九州歴史資料館」で資料を見せてもらいました。
 国立歴史民族博物館研究報告 第36集(平成3年)に阿部義平さんという方が、この羅城を調べていました。
 東アジア最大の羅城です。近畿の平城京、平安京に羅城はありません。土塁の跡もありません。水城の跡の跡もどこにもありません。
 大宰府の都の跡ここが日本で初の条坊制を備えた都のハズである。
 それは、みなさんが九州年号といわれる「倭京」の年号がどうかは定かではありませんが、すくなくともあの『隋書 俀国伝』に出てくる阿毎多利思北孤が西暦600年前後には造った。その時に羅城も造ったのではないかと考えている。

 水城は、百済を支援して唐・新羅連合軍との対決がもう避けられない事を知った筑紫君薩夜麻が、西暦六六〇年の百済を救う役に出かけて行って捕虜となった。その前に造られていないとおかしい。
 薩夜麻ともあろうひとかどの王が、自分の都を守る手立てを講じるない訳がない。水城が何故、白村江の戦いに負けた後に造られるのか?
 それでは、意味がないでしょう。水城は、大宰府のどちら側に造られたのか? 北側でしょ!

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国立歴史民族博物館研究報告 第36集

「大宰府の羅城地図」

 井上信正さんの「大宰府条坊復元図」

「条坊図」

 「御笠軍団印」の
  出土地

「銅印」

 「遠賀軍団印」の
  出土地

「銅印」

 

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